第三十三話「動き出す者」
支局の廊下で、玲と顔を合わせたのは、解放されてから、四日目のことだった。
午後の光が、窓から斜めに差し込み、廊下の床に、長い影を落としていた。
晴が資料室から出てきたところで、玲が、向かいの廊下から歩いてくるのが見えた。
互いに、足を止めた。
あの夜以来、初めての対面だった。
玲の頬は、以前より、幾分か頬骨が浮いて見えた。
目の下にも、薄っすらと、隈が滲んでいる。
制服の襟元も、いつもよりわずかに乱れていた。
几帳面な彼女には、珍しいことだった。
あの夜から、彼女もまた、満足に眠れていないのだろうと、晴は、直感的に察した。
「――久しぶりだな」
玲の声は、いつもと変わらない、ブラントな響きだった。
だが、その目には、これまで見たことのない、張り詰めた色が宿っていた。
瞳の奥に、以前は見えなかった、細かな疲労の影が、幾重にも重なっているようだった。
「はい」
晴は、短く答えた。
何を話せばいいのか、うまく言葉が見つからなかった。
廊下を行き交う他の職員たちの視線が、時折、二人の方に向けられていた。
誰もが、"あの一件"について、何かしら耳にしているのだろう。
晴は、その視線の一つ一つを、意識せずにはいられなかった。
玲は、周囲に人がいないことを確かめてから、声を、僅かに落とした。
「少し、いいか」
二人は、人気のない資料室の片隅に、移動した。
窓のない部屋、いつもの埃っぽい空気が、二人を包んでいた。
棚の隙間から差し込む、僅かな光の筋だけが、埃の粒子を、静かに照らし出していた。
足を踏み入れるたびに、古い床板が、微かに軋んだ。
「灯の収容先について、何か知っているか」
晴が尋ねると、玲は、小さく首を振った。
「正式な情報は、こちらにも、まだ何も降りてきていない。専属監視チームですら、蚊帳の外だ」
その言葉に、晴の表情が、僅かに曇った。
「――手がかりすら、ないんですか」
「今のところは。国内には、調律省が管理する隔離施設が、いくつかあるはずだが……どこも、機密扱いだ。私の権限じゃ、正式な照会すらかけられない」
玲は、悔しさを滲ませるように、拳を、軽く握った。関節が、僅かに白くなった。
「――なぜ、俺に、これを話すんですか」
晴の問いに、玲は、しばらく、沈黙した。窓のない部屋の中、換気口から漏れ聞こえる、微かな風の音だけが、その沈黙を埋めていた。
玲の指先が、棚の縁を、もう一度、なぞった。
木の表面についた、細かな傷の感触を確かめるように。
「……借りが、あるからだ」
「借り、というのは」
「今は、言えない」
玲の声には、これまでにない、重い響きがあった。
晴は、その様子に、何か、深い事情があることを感じ取ったが、それ以上、踏み込むことはできなかった。
玲の頭上に浮かぶ、ごく薄い灰色の靄が、その言葉と共に、僅かに揺れたのを、晴は見逃さなかった。
「一つだけ、言っておく」
玲は、晴の目を、まっすぐに見据えた。
窓のない部屋の薄闇の中でも、その瞳の強さだけは、はっきりと、晴に伝わってきた。
「私は、規定を破るつもりはない。だが、規定の"隙間"を見つけることくらいは、できる。時間は、かかるかもしれない。それでも、もし、お前が、本気で灯を取り戻すつもりなら――私に、できることを、探してみる」
その言葉に、晴の中で、小さな光が灯った。
まだ、何一つ、確かなものはない。
それでも、これまで、一人で抱え込むしかなかった絶望の中に、初めて、微かな希望が差し込んだ瞬間だった。
「――お願いします」
晴は、深く頭を下げた。
玲は、その様子を、しばらく見つめた後、静かに、視線を逸らした。資料室の扉の隙間から、廊下の物音が、微かに聞こえてきた。
二人は、示し合わせたように、それぞれ、別々の方向へと、部屋を後にした。
その日の夜、玲は、支局の資料庫で、一人、密かに、隔離施設に関する記録を、探し始めていた。
規定違反であることは、わかっていた。
だが、玲は、もう、迷わなかった。
灯の家の前で見た、あの光景
――環のすすり泣く声、拘束されていく晴の横顔、連れ去られていく灯の姿。
あの夜、間に合わなかった後悔が、玲の行動の、確かな原動力になっていた。
資料庫の照明は、必要最低限の一角だけを、灯していた。
玲は、その薄暗い光の下、埃をかぶった古いファイルを、片端から、開いていった。
紙をめくる乾いた音だけが、静かな部屋に、規則正しく響いていた。
時折、埃が舞い上がり、玲は、小さく咳き込んだ。
棚は、天井近くまで、隙間なく積み上げられている。
踏み台に乗り、背伸びをしながら、玲は、上段のファイルにも、手を伸ばした。
指先が、埃と、古い紙の乾いた感触で、白くなっていく。
だが、探しても、探しても、それらしい記録は、見つからなかった。
施設の名前も、所在地も、どこにも記されていない。
国家機密として扱われる情報は、この程度の資料庫には、最初から存在していないのかもしれなかった。
玲は、何冊目かのファイルを閉じ、深く、息を吐いた。
手元の手帳には、まだ、何も書き込まれていない。
時間だけが、無為に、過ぎていく。
壁にかけられた古い時計の針が、深夜零時を、静かに指していた。
――こんなところで、時間を無駄にしている場合じゃないのに。
焦りが、玲の胸の中に、じわじわと広がっていった。
それでも、他に手を尽くす術も、今はまだ、思いつかなかった。
窓のない資料庫の中、玲は、開いたままの空白の手帳を、しばらくの間、じっと見つめ続けていた。
深夜の静寂が、彼女の周りを、いつまでも、重く包んでいた。最低限に絞られた照明の灯りだけが、彼女の疲れた横顔を、静かに照らしていた。




