第三十二話 「奪われた後」
拘束された晴が連れて行かれた先は、支局の地下にある、小さな拘留室だった。
窓のない、灰色のコンクリートに囲まれた四畳ほどの部屋。
壁際に、簡素な寝台が一つ置かれているだけで、それ以外には、何もなかった。
天井近くに取り付けられた小さな換気口から、微かに、外の空気が流れ込んでくる。
両腕の拘束具は、部屋に入ると同時に外されたが、扉には、外側から鍵がかけられた。
金属の重い音が、扉の向こうで響いた瞬間、晴は、自分が完全に外界から切り離されたことを、はっきりと悟った。
部屋には、時計もなかった。
天井の隅に取り付けられた、裸電球のような照明が一つ、昼夜を問わず、同じ明るさで灯り続けている。
その一定の光が、かえって、時間の感覚を、いっそう曖昧にしていった。
晴は、寝台の硬い感触を確かめるように、その端に、そっと腰を下ろした。
薄い毛布が一枚、無造作に畳まれているだけの、簡素な寝台だった。
コンクリートの壁は、指で触れると、ひやりと冷たかった。
晴は、その冷たさを、何度も、確かめるように、手のひらで撫でた。
それ以外に、何もすることがなかった。
晴は、寝台に腰掛けたまま、灯が連れ去られた瞬間の光景を、何度も、頭の中で反芻していた。
――灯、大丈夫だ。必ず、迎えに行く。
あの言葉は、灯に届いただろうか。
届いたとして、それが、彼女にとって、何かの慰めになっただろうか。
晴には、わからなかった。
ただ、灯の頭上に渦巻いていた、あの激しい嵐の色だけが、いつまでも、瞼の裏に焼き付いていた。
目を閉じても、開けても、その光景だけは、消えることなく、繰り返し、蘇り続けた。
一日目、晴は、扉を何度か叩いた。
応答は、一度もなかった。
二日目には、その行為すら、無意味に思えて、やめた。
狭い部屋の中を、意味もなく、何度も往復した。
四畳の空間は、あっという間に、隅から隅まで、歩き尽くしてしまった。
三日間の拘留の間、食事は、一日二度、決まった時間に、無言の職員によって、小さな窓のような差し入れ口から、運ばれてきた。
簡素なパンと、薄い野菜のスープ。
晴は、その味をほとんど覚えていなかった。
ただ、生きるための最低限の行為として、機械的に、それを口に運んだ。
時間の感覚は、次第に曖昧になっていったが、それでも、灯のことだけは、片時も、頭から離れなかった。
夜、眠ろうとしても、浅い眠りしか訪れなかった。
夢の中でも、晴は、灯の名を呼び続けていた。
目が覚めるたび、同じ灰色の壁が、同じ角度で、そこにあった。
拘留から三日が経った朝、晴は、椎名の立ち会いのもと、ようやく解放された。
拘留室を出た瞬間、久しぶりに浴びる外の光が、晴の目に、痛いほど眩しく染みた。
廊下を歩く椎名の足音は、いつもより重く、硬かった。
「専属監視官の任は、正式に解かれた」
椎名の声には、これまでにない疲労が滲んでいた。
目の下には、晴と同じように、深い隈が刻まれている。
「お前の処分については、まだ協議中だ。だが、当面は、通常業務への復帰を許可する」
「――灯は」
「収容施設に、身柄を移されている。場所は、俺にも詳しくは知らされていない」
その答えに、晴は、拳を、強く握りしめた。
三日間の拘留の間、灯が今、どこで、どんな状態にいるのか、晴には何も知る術がなかった。
その無力感が、これまでのどんな感情よりも、重く、晴の胸にのしかかっていた。
支局を出た晴は、その足で、灯の家へと向かった。
環の無事を、この目で確かめたかった。
七番区へ向かう道は、いつもと変わらないはずなのに、晴の目には、すべてが色褪せて映った。
すれ違う人々の何気ない笑い声、市場の賑わい
――そうした日常の断片の一つ一つが、今の晴には、ひどく遠いものに感じられた。
煉瓦造りの家の前に立つと、庭先の花壇は、以前よりも、明らかに手入れが行き届いていないように見えた。
土は乾き、花はいくつか、力なく萎れている。
呼び鈴を鳴らすと、しばらくして、環が、やつれた表情で、扉を開けた。
「――晴さん」
「ご無事でしたか」
環は、力なく頷いた。
その目の下には、深い隈が刻まれていた。
頬も、以前より、幾分か痩せこけて見えた。
「あの夜以来、何も、手につかなくて」
環は、晴を居間へと招き入れた。
テーブルの上には、あの夜のまま、片付けられていない湯呑みが残されていた。
冷え切った茶の表面に、薄い膜が張っている。
誰も、それに触れる気力を、まだ持てずにいるようだった。
「灯の行方について、何か、聞いていますか」
晴が尋ねると、環は、静かに首を振った。
「私にも、何も。ただ」
環は、言葉を切り、しばらく、俯いた。
膝の上に置かれた両手が、微かに震えていた。
「あの子を、一人にはしておけない。私にできることがあるなら、何でもします。晴さんも、同じ気持ちでしょう」
「――はい」
晴は、迷わず頷いた。灯を取り戻す。
その決意は、拘留室の中で、むしろ、これまでよりも強く、固まっていた。
だが、正規の手段では、もはや、灯に近づく術はない。
晴は、そのことを、痛いほど理解していた。
環の家を辞去し、支局に戻る道すがら、晴は、ふと、玲の姿を思い出していた。
あの夜以来、玲とは、一度も顔を合わせていなかった。
専属監視チームとして、あの夜、彼女がどこで何をしていたのか
――それすら、晴には、まだ知らされていなかった。
彼女が今、何を思い、どう動いているのか
――晴には、まだ、知る由もなかった。
七番区の空には、あの夜の激しい雨は、すでに止んでいた。
だが、雲は、いまだ厚く垂れ込めたまま、晴れる気配を見せずにいた。
晴は、その重たい空を見上げながら、拳を、もう一度、強く握りしめた。




