表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
空が壊れるほどの恋だった  作者: Kakou
【第二部】第一章
PR
31/94

第三十一話 「間に合わなかった夜」

その夜、玲は、七番区へと続く道を、ただ走っていた。


収容が前倒しになったという一報を受けてから、玲は、支局を飛び出していた。

理由は、自分でもうまく説明できなかった。

ただ、じっとしていることが、どうしてもできなかった。


息が切れ、脇腹が痛んだ。

制服の上着が、汗で肌に張り付いていく。

それでも、玲は、足を止めなかった。

夕暮れから夜へと変わりゆく空の下、七番区の煉瓦色の家並みが、少しずつ、近づいてくる。

街灯の明かりが、一つ、また一つと、玲の視界の端を、後ろへと流れていった。


だが、灯の家が見えてくる頃には、すでに、すべてが終わっていた。



家の前には、調律省専用の車両が停まっていた。

この国では調律省だけが保有を許された、圧縮空気と蒸気機関を応用した特殊な動力車。

無骨な鉄と真鍮でできた箱型の車体から、蒸気を吐き出す音と、歯車の軋む音が、低く、途切れることなく響いている。

制服姿の職員たちが、事務的な動きで、車両に乗り込んでいく。

玄関の扉は、半ば開いたままになっており、その奥から、微かに、環のすすり泣く声が漏れ聞こえていた。


玲は、その光景を、少し離れた路地の陰から、ただ、見つめることしかできなかった。


呼吸を整えようとしても、うまくいかず、荒い息だけが、闇の中に、白く浮かんでは消えていった。


拘束された晴が、職員に伴われ、車両の一つに乗せられていく。

その横顔には、表情らしい表情がなかった。

灯の姿は、もう一台の、窓のない車両の中に消えていた。

玲は、駆け寄ろうとした足を、寸前で止めた。

今、自分が姿を現しても、状況は、何一つ変わらない。

むしろ、事態を、余計に複雑にするだけかもしれない

――そう考える冷静さが、皮肉にも、玲の中に、まだ残っていた。

爪が、掌に、深く食い込んでいた。


車両が、次々と走り去っていく。

真鍮製のランプの灯りが、路地の壁を、一瞬だけ橙色に照らし、やがて、遠ざかっていった。

蒸気の音が遠ざかり、やがて、静寂だけが、七番区の夜に残された。



玲は、路地の陰から、ゆっくりと歩み出た。

半開きのままの玄関から、居間の様子が、僅かに見えた。

倒れた椅子、こぼれた茶の染み

――そこに、ついさっきまであったはずの、穏やかな時間の残骸が、そのまま、取り残されていた。

テーブルの上のランプだけが、誰もいない部屋を、力なく照らし続けていた。


玲は、その場に、しばらく立ち尽くしていた。


――私が、もっと早く、動いていれば。


その後悔は、これまで玲が抱えてきた、どんな感情よりも、重く、鋭かった。

こんなにすぐだと思っていなかった。

その油断が、この結末を、招いたのかもしれない。

晴の反抗が、事態を早めてしまった。

だが、その反抗を引き出したのは、他でもない、玲自身の沈黙だったのではないか

――そんな考えすら、玲の中に、浮かんでは消えなかった。


夜空を見上げると、これまで見たことのないほど激しい雨が、七番区の上空に、局地的に降り注いでいた。

それは、灯の感情そのものが、空に叩きつけられているかのような、荒々しい雨だった。

雨粒は、玲のプラチナブロンドを、瞬く間に濡らし、頬を伝って、顎の先から滴り落ちていった。玲は、その雨に打たれるまま、しばらく、動くことができなかった。



玲は、濡れた前髪を、指先で払いのけ、静かに、支局へと引き返した。

濡れた制服が、体に重く、まとわりついていた。


このまま、何もせずにいることは、もう、できない。

晴が拘束され、灯が連れ去られた今、玲にできることは、これまでよりも、遥かに限られている。

だが、それでも。


玲は、雨の中、歩きながら、静かに、自分自身に誓いを立てた。

靴の底が、水たまりを踏むたび、ぱしゃりと、小さな音を立てた。


――今度こそ、間に合わせる。


その誓いだけを胸に、玲は、夜の街を、一人、歩き続けていた。

遠くに見える中央塔の灯りが、雨に霞みながら、ぼんやりと浮かび上がっていた。

その光を睨みつけるように見つめながら、玲は、歩みを、決して緩めなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ