第三十一話 「間に合わなかった夜」
その夜、玲は、七番区へと続く道を、ただ走っていた。
収容が前倒しになったという一報を受けてから、玲は、支局を飛び出していた。
理由は、自分でもうまく説明できなかった。
ただ、じっとしていることが、どうしてもできなかった。
息が切れ、脇腹が痛んだ。
制服の上着が、汗で肌に張り付いていく。
それでも、玲は、足を止めなかった。
夕暮れから夜へと変わりゆく空の下、七番区の煉瓦色の家並みが、少しずつ、近づいてくる。
街灯の明かりが、一つ、また一つと、玲の視界の端を、後ろへと流れていった。
だが、灯の家が見えてくる頃には、すでに、すべてが終わっていた。
家の前には、調律省専用の車両が停まっていた。
この国では調律省だけが保有を許された、圧縮空気と蒸気機関を応用した特殊な動力車。
無骨な鉄と真鍮でできた箱型の車体から、蒸気を吐き出す音と、歯車の軋む音が、低く、途切れることなく響いている。
制服姿の職員たちが、事務的な動きで、車両に乗り込んでいく。
玄関の扉は、半ば開いたままになっており、その奥から、微かに、環のすすり泣く声が漏れ聞こえていた。
玲は、その光景を、少し離れた路地の陰から、ただ、見つめることしかできなかった。
呼吸を整えようとしても、うまくいかず、荒い息だけが、闇の中に、白く浮かんでは消えていった。
拘束された晴が、職員に伴われ、車両の一つに乗せられていく。
その横顔には、表情らしい表情がなかった。
灯の姿は、もう一台の、窓のない車両の中に消えていた。
玲は、駆け寄ろうとした足を、寸前で止めた。
今、自分が姿を現しても、状況は、何一つ変わらない。
むしろ、事態を、余計に複雑にするだけかもしれない
――そう考える冷静さが、皮肉にも、玲の中に、まだ残っていた。
爪が、掌に、深く食い込んでいた。
車両が、次々と走り去っていく。
真鍮製のランプの灯りが、路地の壁を、一瞬だけ橙色に照らし、やがて、遠ざかっていった。
蒸気の音が遠ざかり、やがて、静寂だけが、七番区の夜に残された。
玲は、路地の陰から、ゆっくりと歩み出た。
半開きのままの玄関から、居間の様子が、僅かに見えた。
倒れた椅子、こぼれた茶の染み
――そこに、ついさっきまであったはずの、穏やかな時間の残骸が、そのまま、取り残されていた。
テーブルの上のランプだけが、誰もいない部屋を、力なく照らし続けていた。
玲は、その場に、しばらく立ち尽くしていた。
――私が、もっと早く、動いていれば。
その後悔は、これまで玲が抱えてきた、どんな感情よりも、重く、鋭かった。
こんなにすぐだと思っていなかった。
その油断が、この結末を、招いたのかもしれない。
晴の反抗が、事態を早めてしまった。
だが、その反抗を引き出したのは、他でもない、玲自身の沈黙だったのではないか
――そんな考えすら、玲の中に、浮かんでは消えなかった。
夜空を見上げると、これまで見たことのないほど激しい雨が、七番区の上空に、局地的に降り注いでいた。
それは、灯の感情そのものが、空に叩きつけられているかのような、荒々しい雨だった。
雨粒は、玲のプラチナブロンドを、瞬く間に濡らし、頬を伝って、顎の先から滴り落ちていった。玲は、その雨に打たれるまま、しばらく、動くことができなかった。
玲は、濡れた前髪を、指先で払いのけ、静かに、支局へと引き返した。
濡れた制服が、体に重く、まとわりついていた。
このまま、何もせずにいることは、もう、できない。
晴が拘束され、灯が連れ去られた今、玲にできることは、これまでよりも、遥かに限られている。
だが、それでも。
玲は、雨の中、歩きながら、静かに、自分自身に誓いを立てた。
靴の底が、水たまりを踏むたび、ぱしゃりと、小さな音を立てた。
――今度こそ、間に合わせる。
その誓いだけを胸に、玲は、夜の街を、一人、歩き続けていた。
遠くに見える中央塔の灯りが、雨に霞みながら、ぼんやりと浮かび上がっていた。
その光を睨みつけるように見つめながら、玲は、歩みを、決して緩めなかった。




