第二十九話 「まだ間に合うと思っていた」
中央塔から戻った晴は、その足で、七番区の灯の家へと向かった。
夕暮れの空は、まだ薄い橙色を残していたが、七番区に近づくにつれ、その色は、次第に灰色がかった雲に、覆われていくように見えた。
危険指定のこと、専属監視体制が廃止され、灯が施設に収容される可能性があること
――それを、一刻も早く、灯本人の口から伝えなければならないと、晴は思っていた。
まだ、猶予はあるはずだ。
灯の家の煉瓦造りの壁が、夕闇の中に、いつもより暗く沈んで見えた。
庭先の花壇の花も、すでに閉じかけている。
晴は、その静けさに、一瞬だけ足を止めたが、すぐに、玄関の呼び鈴を鳴らした。
家の居間、晴から事の次第を聞いた灯は、しばらくの間、言葉を失っていた。
夕暮れの光の中、灯の頭上には、これまで見たことのない、重く沈んだ色の靄が広がっていた。
それは、怒りでも、悲しみでもない、もっと深い場所から滲み出るような、諦めに近い色だった。
窓の外の空も、その色に呼応するように、僅かに翳りを帯びていた。
「――そう、ですか」
灯の声は、驚くほど静かだった。
膝の上で組んだ両手が、白くなるほど、強く握られていた。
「いつかは、こうなるんじゃないかって、心のどこかで、思ってました」
「灯」
「大丈夫です。びっくりはしてるけど、覚悟が、なかったわけじゃないから」
灯は、無理に笑おうとしているように見えた。
だが、その笑顔は、いつものものとは、明らかに違っていた。
口角は上がっているのに、目の奥には、隠しきれない怯えが揺れていた。
環は、二人を居間に招き入れたまま、テーブルの上に、いつものように、三人分の湯呑みを並べた。
湯気が、静かに立ち上り、ランプの光の中で、ゆらゆらと揺れている。
だが、その夜の空気は、これまでのどの夜とも違っていた。
「収容の実行日は、まだ聞いていないんですね」
環の問いに、晴は頷いた。
「詳細は、追って通知するとだけ。ただ、そう遠くはないはずです」
環は、湯呑みを、静かに両手で包んだ。
指先が、微かに震えているのが、晴にも見て取れた。
しばらくの沈黙の後、彼女は、灯の顔を、じっと見つめた。
「灯。あなたに、伝えておかなければいけないことがあります」
「――何」
「もし、あなたが連れて行かれることになったら。私は、できる限りのことをします。この家にあるもの、私が知っていること、すべてを使って」
環の声には、これまでにない、静かな覚悟が滲んでいた。
灯は、その言葉に、目を潤ませた。
「環おばさん」
「あなたを守ることが、私が、この十八年間、生きてきた理由の一つだから」
環は、そう言い切ると、湯呑みを、テーブルにそっと置いた。
その手つきには、長年、この家で灯を守り続けてきた者だけが持つ、静かな強さが宿っていた。
居間のランプの灯りが、三人の顔を、柔らかく照らしていた。
灯は、しばらく俯いていたが、やがて、隣に座る晴の方へ、そっと体を寄せた。
彼女の肩が、微かに震えているのが、晴にも伝わってきた。
「――晴さん」
「はい」
「もし、本当に連れて行かれたら。私のこと、忘れないでいてくれますか」
「忘れません」
晴は、迷わず答えた。
「それに、忘れるかどうかを心配する必要はありません。俺は、灯を、必ず取り戻します」
その言葉に、灯は、驚いたように、晴の顔を見上げた。
夕暮れの残光と、ランプの灯りが混じり合い、彼女の瞳に、二重の光を宿していた。
「――どうやって」
「まだ、わかりません。ですが、諦めるつもりは、一切ありません」
晴の声には、これまでの彼らしからぬ、強い意志が宿っていた。
灯は、しばらく、その顔を見つめた後、静かに、晴の胸に、額を寄せた。
「――怖い」
その小さな呟きは、これまで灯が見せたことのない、剥き出しの弱さだった。
晴は、その体を、そっと抱きしめた。
腕の中の灯の体は、思っていたよりも、ずっと小さく、そして微かに震えていた。
「大丈夫です。俺が、必ず」
環は、その様子を、テーブルの向こうから、黙って見守っていた。
その目には、二人を見守る慈しみと、同時に、抑えきれない不安の色が、静かに滲んでいた。
窓の外は、すっかり夜の帳が下りている。
灯の頭上に漂う靄は、少しずつ、その濃さを増していった。
それは、二人の間にある、消えることのない不安の色そのものだった。
三人は、まだ、時間があると思っていた。
少なくとも、今夜ではないと。
壁にかけられた古い時計の針は、変わらぬ速さで、時を刻み続けている。
その規則正しい音だけが、束の間、この家に、束の間の平穏を保っているかのようだった。
だが、居間の壁時計の針が、静かに時を刻み続ける中、玄関の外では、蒸気を吐き出す音と、歯車の軋む音が、この家へと向かって、近づいてきていた。




