第二十八話 「危険指定」
その報せが届いたのは、灯台への遠出から、三日後のことだった。
支局の朝礼で、椎名が、重い声でそれを告げた。
執務室に集まった職員たちの表情が、一様に強張っていた。
「本部より、正式通達があった。氷雨灯を、"特異点"として、危険指定に格上げする」
執務室に、静かなざわめきが広がった。
晴は、その言葉を、しばらく、うまく飲み込めずにいた。
心臓が、耳の奥で鳴っているのが、はっきりとわかった。
危険指定――それは、これまでの「特異点予備群」という曖昧な扱いから、明確に一線を越えた、国家による正式な認定だった。
「今後の対応方針については、本部が直接指示する。天宮、お前は、午後中央塔に出頭するように」
椎名の視線が、晴に向けられた。
その目には、これまでにない、深い憂慮の色が浮かんでいた。
晴は、拳を握りしめたまま、無言で頷くことしかできなかった。
手のひらに、じわりと汗が滲んでいた。
中央塔へ向かう道すがら、晴の足取りは、これまでのどの呼び出しの時よりも、重く、そして速かった。
灰色の塔が、視界の中で、少しずつ大きくなっていく。
その威圧的な佇まいが、今日ばかりは、まるで自分の行く手を阻む壁のように感じられた。
応接室、忍は、いつもと変わらない、感情の読めない顔で、晴を迎えた。
だが、その机の上には、これまでよりも、遥かに分厚い書類の束が積まれていた。
窓から差し込む光が、書類の山に、長い影を落としている。
「危険指定の件は、聞いているな」
「はい」
晴の声は、自分でも驚くほど、静かだった。
だが、その内側では、これまで感じたことのない熱が、確かに渦を巻いていた。
「氷雨灯は、今後、より厳格な管理下に置かれる。専属監視という、現在の緩やかな体制は廃止される」
その言葉に、晴の胸が、鋭く締め付けられた。
息が、一瞬、詰まった。
「――廃止、というのは」
「対象は、然るべき施設に収容し、集中的な管理・調律を行う。それが、上層部の決定だ」
忍の声は、抑揚に乏しく、事務的だった。
だが、その言葉の一つ一つが、晴の中に、重く、冷たく、突き刺さっていった。
応接室の空気が、急激に薄くなったように感じられた。
「――お待ちください」
晴は、思わず、声を上げていた。
その声には、これまで彼が人前で見せたことのない、強い響きが宿っていた。
忍が、初めて、僅かに眉を動かした。
「灯は、これまで、国家に何の危害も加えていません。感情の反応が強いというだけで、生活のすべてを奪う権利が、どこにあるんですか」
「規定だ」
忍の答えは、簡潔だった。
表情筋一つ動かさない、岩のような静けさだった。
「対象の反応が、今後さらに強まれば、第二の大嵐を引き起こしかねない。それを未然に防ぐことこそが、調律省の使命だ。個人の感情は、その前では、優先されない」
「――彼女は、"個人"です。数字でも、危険因子でもなく、一人の人間です」
晴の声は、これまでにないほど、強く、はっきりとしていた。
机を挟んで向かい合う二人の間に、張り詰めた沈黙が、一瞬、走った。
忍は、その様子を、値踏みするように、じっと見つめていた。
「専属監視官としてのお前の見解は、記録しておく。だが、決定は覆らない」
「――俺は」
晴は、拳を、強く握りしめた。
爪が、掌に、深く食い込む。
それでも、彼はその痛みにすら、気づかないほど、目の前の男を、まっすぐに見据え続けていた。
「彼女を渡すわけにはいきません」
その一言は、晴自身にとっても、これまでのどの言葉よりも、明確な意志を伴っていた。
声が、応接室の重厚な壁に、僅かに反響した。
忍は、しばらく、無言のまま、晴を見つめていた。
その視線の奥に、何か複雑な色が滲んでいるようにも見えたが、晴には、それを読み取る余裕がなかった。
二人の間に流れる沈黙は、これまでのどの面談よりも、長く、重かった。
窓の外、風が、僅かに音を立てて吹き抜けていくのが、やけにはっきりと聞こえた。
「――その発言、記録に残るぞ」
忍は、静かに、そう告げた。
だがその声には、これまでにない、何か測るような響きが混じっていた。
「規定への公然たる反抗と見なされれば、お前自身の処分にも直結する。それでも、その言葉を撤回しないか」
「――しません」
晴は、迷わず答えた。
声は震えていなかった。
むしろ、これまでのどんな瞬間よりも、はっきりと、揺るぎなかった。
忍は、僅かに目を伏せ、それから、机の上の書類を、静かに閉じた。
「わかった。お前の意志は、確かに聞いた」
その言葉の意味を、晴は、正確には理解できなかった。
だが、忍の態度には、これまでの威圧的な口調とは、僅かに違う、何かがあるようにも感じられた。
中央塔を出た晴は、七番区へと、急いで足を向けた。
灯に、この事実を、一刻も早く伝えなければならなかった。
道すがら、晴の頭の中には、椎名の言葉、忍の言葉、そしてこれまでの日々の記憶が、繰り返し、駆け巡っていた。
灯台での笑顔、繋いだ手の温もり、大嵐記念公園で交わした約束
――それらすべてが、今、失われようとしている。
走るように歩を進める晴の息は、次第に、荒くなっていった。
俺に、何ができるだろうか。
その問いに、まだ、明確な答えはなかった。
だが、晴の足取りは、迷いなく、灯の元へと向かっていた。
夕暮れの空、七番区の方角には、あの日から続く、不穏な雲が、依然として、静かに漂っていた。




