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空が壊れるほどの恋だった  作者: Kakou
【第一部】第四章
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第二十七話 「帰り道」

灯台からの帰路、二人を乗せた最終の乗合馬車は、夜の闇の中を、首都圏へと向かっていた。


窓の外はすでに真っ暗で、時折、遠くの農家の灯りが、小さく瞬いて過ぎていくだけだった。

車内には、他に乗客もなく、規則正しい車輪の音と、時折軋む座席の音だけが、静かに響いていた。ランプの淡い光が、車内を、橙色にぼんやりと照らしている。


灯は、いつの間にか、晴の肩に、そっと頭をもたせかけていた。

一日の遠出の疲れからか、その寝息は、穏やかで、規則正しかった。

柔らかな黒髪が、晴の肩口に触れ、微かに石鹸のような匂いが漂ってくる。

晴は、身動きが取れないまま、その重みを、大切に受け止めていた。

繋いだままの手のひらから、灯の体温が、絶えず伝わってくる。

時折、指先が、夢の中でのことなのか、微かに動いた。


この時間が、もう少し長く続けばいい。

晴は、そう思わずにはいられなかった。

窓の外を流れる夜の景色を、彼はいつまでも、目に焼き付けるように見つめ続けていた。

だが、馬車は、確実に、首都圏へと近づいていた。

遠くに、中央塔の灯りが、小さく見え始めていた。



支局に戻った晴は、非番明けの朝、いつものように出勤した。

だが、執務室に足を踏み入れた瞬間、いつもとは違う空気を、肌で感じ取った。


同僚たちの視線が、一斉に、晴に向けられる。

誰も、はっきりとは何も言わなかった。

だが、その沈黙には、これまでにない重さがあった。誰かが小さく咳払いをする音、書類をめくる音が、やけに大きく、晴の耳に響いた。


「――天宮」


椎名が、硬い表情で、晴を執務室の奥へと呼んだ。

手には、一枚の観測記録が握られている。

その紙を持つ手が、いつもよりわずかに強張っているのを、晴は見て取った。


「昨日の、氷雨灯の反応記録だ」


晴は、その紙を受け取った。

目を通した瞬間、息を呑んだ。


国境の灯台周辺、そして帰路の馬車の中

――その両方で、灯の感情反応が、これまでの記録の中でも、群を抜いて高い数値を示していた。

局地的な晴天、それも、これまで観測されたことのない、極めて安定した、けれど強度の高い反応。

グラフの折れ線は、これまでのどの波形とも違う、なだらかで、けれど高い位置を、長時間、維持し続けていた。


「これは」


「本部が、すでに把握している」


椎名の声は、抑えられていたが、その奥に、明確な焦りが滲んでいた。


「専属監視対象を、生活圏外の、しかも人目の少ない場所に連れ出した。規定の重大な逸脱だ。お前が、何を考えていたのか知らんが」


晴は、何も言い返せなかった。

灯台での時間、繋いだ手の温もり

――それらすべてが、今、無機質な数値として、記録の中に、変換されてしまっていた。

手にした紙の端が、知らぬ間に、指の力で、僅かに折れ曲がっていた。



「――お前を、専属監視官の任から外すべきだという声が、本部で出ている」


椎名の言葉に、晴は、目の前が、僅かに暗くなるのを感じた。

執務室の照明が、やけに白々しく、頭上から降り注いでいるように感じられた。


「今すぐにではない。だが、時間の問題だ。次に、これ以上の逸脱があれば、間違いなく、正式な処分が下る」


晴は、拳を、強く握りしめた。

爪が、掌に、鈍い痛みを伴って食い込んだ。

灯台での時間を、後悔してはいなかった。

あの時間は、晴にとっても、灯にとっても、かけがえのないものだった。

だが、その代償が、これほど早く、これほど重く、二人の元に返ってくるとは、想像していなかった。


「灯は、どうなりますか」


晴が尋ねると、椎名は、一瞬、言葉に詰まった。

視線を、机の上の書類に、逃がすように落とす。


「――それは、俺の判断できる範囲じゃない」


その答えは、これまでのどの警告よりも、晴の胸に、鋭く突き刺さった。



その日の夕方、晴は、いつものように、灯を迎えに行った。

校門を出てきた灯は、晴の表情を見た瞬間、何かを察したように、足を止めた。

夕暮れの光が、彼女の顔に、長い影を落としていた。


「――何か、あったんですね」


「昨日の反応記録が、問題視されています」


晴は、正直に、椎名から聞いた話を、灯に伝えた。

灯の表情が、みるみるうちに、強張っていった。

校門を出ていく他の生徒たちの声が、遠くに、他人事のように聞こえた。


「私のせいで」


「違います」


晴は、はっきりと否定した。


「俺が、灯を連れて行くと決めたんです。灯のせいでは、ありません」


灯は、しばらく、何も言えずにいた。

夕暮れの光の中、彼女の頭上には、複雑な色の靄が、渦を巻くように広がっていた。

灰色と、水色と、名前のつけようのない色が、絶えず入れ替わっている。


「これから、どうなるんですか」


その問いに、晴は、正直に答えるしかなかった。


「わかりません。ですが」


晴は、灯の目を、まっすぐに見つめた。

彼女の瞳の奥に揺れる不安を、晴は、しっかりと受け止めた。


「何が起きても、俺は、灯の傍にいます」


その言葉に、灯は、目を潤ませながら、小さく頷いた。

二人の間に流れる沈黙は、これまでのどの沈黙とも違う、覚悟を伴ったものだった。

校門前の並木が、夕風に、さらさらと音を立てていた。


夕暮れの空の彼方、七番区の方角に、これまで見たことのない、薄く不穏な雲が、静かに湧き始めていた。

その雲は、灯の頭上の靄とは明らかに違う、もっと広範囲に及ぶ、ひやりとした灰色をしていた。

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