第二十六話 「灯台まで」
「今日は、少し遠くまで行ってみませんか」
非番の朝、灯の家の前で、灯はそう切り出した。
いつもより少し大きな鞄を肩にかけ、動きやすいパンツスタイルに、薄手のカーディガンを羽織っている。
朝の光の中、その姿は、これから遠出をする者の高揚感を、隠しきれていなかった。
「遠く、というのは」
「国境の灯台。前から、一度行ってみたかったんです」
その提案に、晴は、僅かに驚いた。
国境の灯台は、首都圏から遠く離れた、この国で唯一、海の外を見渡せる場所だった。
専属監視の対象がそこまで足を延ばすことは、これまで一度もなかった。
「――規定上、生活圏を大きく外れる行動は」
「今日は、非番なんでしょう。私だって、たまには、遠くに行きたい日がある」
灯の声には、これまでにない強さがあった。
晴は、その強さの奥に、忍からの圧力や、この数週間の緊張から、束の間でも逃れたいという、彼女なりの切実さを感じ取った。
「――わかりました」
晴は、頷いた。
今日一日だけは、規定よりも、灯の望みを優先しよう。
そう、静かに決意していた。
首都圏から灯台へと続く道は、片道数時間の道のりだった。
乗合馬車を乗り継ぎ、次第に、街並みは疎らになっていく。
木製の座席は硬く、車輪が石畳の継ぎ目を越えるたびに、小さな振動が伝わってきた。
窓の外に広がる景色は、七番区の煉瓦色の家並みから、やがて、なだらかな丘陵と、点在する農家の風景へと変わっていった。
馬車に揺られながら、灯は、久しぶりに、屈託のない表情を見せていた。
「見てください、あの丘」
灯が指さす先には、一面に広がる、名も知らない黄色い花畑があった。
風が吹くたび、花々が波のように揺れる。
灯の頭上には、その景色を映すように、明るい水色の光が広がっていた。
「――綺麗ですね」
「でしょう」
灯は、満足そうに微笑んだ。晴は、その横顔を、そっと見つめていた。
馬車が大きく揺れた拍子に、灯の肩が、晴の肩に、軽くぶつかった。
「――あ、ごめんなさい」
「いえ」
灯は、慌てて座り直したが、それからしばらく、二人の間の距離は、心なしか、これまでより近いままだった。
灯台に着いたのは、昼を過ぎた頃だった。
白く塗られた円筒形の建物が、切り立った崖の上に、まっすぐに立っている。
その足元には、これまで晴が見たことのない、広大な海が広がっていた。
潮の匂いが、風に乗って、強く香ってくる。
この国では、海は、単なる景色以上の意味を持っていた。
調律山脈に囲まれた首都圏では、決して見ることのできない、感情の影響を受けない、ただの自然の広がり。
灯は、その光景に、しばらく言葉を失っていた。
「――海って、こんなに広いんですね」
灯の声は、震えていた。
「テレビや本でしか、見たことなかった。実物、初めてです」
灯は、崖の縁近くまで歩み寄り、両手を広げるようにして、風を受け止めた。
強い潮風が、彼女の黒髪と、毛先の淡いブルーを、大きく揺らした。
足元の岩肌には、白い波しぶきが、絶え間なく打ち寄せていた。
「ここでなら、私、何も気にしなくていい気がします。空も、海も、私の感情なんて関係なく、ただ、そこにある」
その言葉に、晴は、灯台の白い壁に寄りかかりながら、静かに耳を傾けていた。
崖沿いの細い小道を、二人は並んで歩いた。
足元は、風化した岩と、丈の低い草で覆われ、時折、踏み外しそうになる場所もあった。
「――足元、気をつけて」
晴がそう言うと、灯は、少し驚いたように振り返った。
それから、悪戯っぽく笑い、晴の方へと手を伸ばした。
「じゃあ、繋いでくれますか。転んだら、責任取ってもらわないと」
冗談めかした口調だったが、その手は、確かに、晴の返事を待っていた。
晴は、一瞬の躊躇の後、その手を、そっと握った。
灯の手は、思っていたよりも小さく、そして、温かかった。潮風に冷やされた指先が、その温もりに、ゆっくりと馴染んでいく。
二人は、そのまま、手を繋いで小道を歩き続けた。
言葉は、必要なかった。
波の音と、風の音だけが、二人を包んでいた。
晴は、繋いだ手のひらから伝わる、灯の鼓動のような、微かな温もりの揺らぎを、ずっと感じ続けていた。
それは、これまで彼が観測してきた、どんな感情の数値よりも、はるかに雄弁なものだった。
夕暮れ近く、二人は、灯台の足元に広がる岩場に腰を下ろした。
波の音が、規則正しく、二人の間を満たしていた。
繋いだ手は、いつの間にか、どちらからともなく、そのままになっていた。
「――晴さん」
灯が、隣に座る晴の方を向いた。
「今日、連れてきてくれて、ありがとうございます」
「灯が、行きたいと言ったので」
「それもそうなんですけど」
灯は、少し言葉を選ぶように、間を置いた。
繋いだ手に、僅かに力がこもるのを、晴は感じた。
「規定を破ってまで、私のわがままに付き合ってくれたこと。それに、私がどんなに感情を乱しても、晴さんは一度も、私を怖がらなかった。最初に会った日から、ずっと」
灯は、海の方を見つめながら、続けた。
「怖がらないでいてくれて、ありがとう」
その言葉は、晴の胸の奥に、静かに、けれど深く染み込んでいった。
これまで、灯から向けられた、どの感謝の言葉よりも、その一言は、晴の存在そのものを、まっすぐに肯定してくれるものだった。
夕陽が、水平線に沈み始めていた。
橙色の光が、海面を、一面に染めていく。
灯の頭上には、これまで見たことのないほど、澄み渡った茜色の光が、広がっていた。
繋いだ手のひらから、灯の温もりが、絶え間なく伝わってくる。
晴は、その光景を、いつまでも、忘れないだろうと思った。
同時に、この穏やかな時間が、いつまでも続くわけではないという予感が、胸の奥に、小さな影を落としていた。
それでも今は、繋いだ手を、離したくないと、晴は、初めて、はっきりとそう思った。




