第二十三話 「知った後の日常」
環から真実を聞かされてから、一週間が経っていた。
世界の見え方が一変したような感覚とは裏腹に、灯と晴の日常は、表面上、これまでと変わらないまま続いていた。
学園、監視、七番区の夕暮れ
――繰り返される時間の中に、二人だけが知る秘密が、静かに織り込まれているだけだった。
だが、その秘密は、確実に、二人の間の何かを変えていた。
言葉にはしなくても、互いの視線の交わし方、沈黙の質、そうした些細なものの端々に、以前とは違う重みが滲むようになっていた。
「――今日も、変わりないですか」
放課後の校門前、玲がいつもの決まり文句を口にした。
夕方の生徒たちが、賑やかに校門をくぐっていく。
灯は、頷きながらも、以前とは違う目で、玲の顔を見つめていた。
この人も、自分と晴が調べていることの一部を、もしかしたら知っているのかもしれない
――そんな予感が、灯の中に、ずっと燻っていた。
「はい。特には」
いつも通りの答えを返しながら、灯は、玲の頭上に浮かぶ、あの薄い灰色の靄を、そっと見上げた。
それは、以前よりも、心なしか濃くなっているように見えた。
玲は、灯の視線に気づいたのか、僅かに目を伏せ、足早に持ち場を離れていった。
その夜、晴は、支局からの帰り際、椎名に呼び止められた。
執務室には、すでに他の職員の姿はなく、窓の外は、とっぷりと日が暮れていた。
「天宮。中央塔から、また連絡が来ている」
椎名の声には、隠しきれない緊張があった。
晴は、その言葉に、静かに身構えた。
「氷雨灯の反応について、直接、黒曜幹部が確認したいことがあるそうだ。明日、出向くように」
「――内容は」
「聞いていない。ただ」
椎名は、周囲に人がいないことを確かめるように、一度、廊下を見回した。
その慎重な仕草に、晴は、事の重さを改めて感じ取った。
「最近の対象の反応、把握しているか。数値上は落ち着いているように見えて、時折、これまでにないパターンの反応が混じっている。分析班も、原因を特定できずにいる」
その報告は、晴にとって、決して意外なものではなかった。
灯と過ごす時間が増えるほど、そして、環から聞いた真実を共有するほど、灯の感情の機微は、以前にも増して複雑になっていた。
だがそれを、椎名や中央塔に説明するわけにはいかなかった。
「注意して、観測を続けます」
晴は、それだけ答えて、支局を後にした。
夜の街を歩きながら、彼は、明日の呼び出しのことを、繰り返し考えていた。
翌日、中央塔の最上階近く、忍の執務室。
重厚な扉を開けると、忍は、これまでと変わらない、感情の読めない顔で、机の向こうに座っていた。
窓から差し込む光が、彼の濃紺の礼服の輪郭を、くっきりと縁取っている。
「天宮晴、参りました」
晴は、一礼して、勧められるより先に、姿勢を正して立ったままでいた。
忍の前では、余計な油断を見せるべきではない
――それは、これまでの二度の面談で、晴が学んだ数少ない教訓だった。
「氷雨灯の反応データを見た。妙なパターンが出ているな」
忍の声は、抑揚に乏しく、事務的だった。
机の上には、灯の観測記録が印字された資料が広げられている。
「――把握しています」
「原因に、心当たりは」
その問いに、晴は、一瞬、言葉を選んだ。
すべてを話すことは、できなかった。
忍の半眼の奥、深い黒褐色の瞳が、まっすぐに晴を見据えている。
値踏みするような、逃げ場のない視線だった。
「特には、ありません」
「そうか」
忍は、資料を閉じ、机の上で指を組んだ。
「なら、こちらで独自に調査を進める。お前の監視能力に頼らず、な」
その言葉には、明確な不信が滲んでいた。
晴の対応が生ぬるいと判断すれば、いつでも別の手段に切り替える
――そう告げているに等しかった。
「一つ、言っておく」
忍は、書類の束を、机の端に押しやりながら続けた。
「対象の反応が、今後さらに複雑化すれば、上層部は、より強い対応を取らざるを得なくなる。それがどういう意味か、お前にもわかっているはずだ」
その口調に、迷いは一切感じられなかった。
むしろ、これまでの面談よりも、いっそう硬質で、有無を言わさない響きがあった。
忠告というより、最終通告に近い響きだった。
「規定を逸脱するような真似は、決して許されない。お前個人の感傷で、国家の安全を脅かすことは、断じて容認できない」
「――肝に、銘じます」
晴は、それだけ答えるのが精一杯だった。
忍は、それ以上、晴の顔を見ることなく、書類仕事に視線を戻した。
話は終わりだ、という、無言の合図だった。
晴は、一礼して執務室を後にした。
扉が閉まる音を背に聞きながら、晴の胸には、重く冷たいものが残っていた。
忍という人間の底に何があるのか、この短い面談だけでは、何一つ見えてこなかった。
ただ、彼が組織の論理に忠実な、揺るぎない壁であることだけは、これ以上ないほど、はっきりと伝わってきた。
その日の夕方、晴は、いつものように灯と七番区の道を歩いていた。
夕暮れの光が、石畳の道を橙色に染めている。
「――晴さん、何か、あったんですか」
灯が、ふと尋ねた。
晴の様子から、何かを感じ取ったのだろう。
「本部の黒曜幹部に、呼ばれました。灯の反応データについて」
灯の表情が、僅かに曇った。
「私、そんなに変な感じ、出てますか」
「変、というよりは」
晴は、言葉を選びながら答えた。
「複雑になっている、と言われました。おそらく、環さんから聞いた話を、俺たちが共有したことと、無関係ではないと思います」
灯は、しばらく黙って、足元を見つめていた。
道端の小石を、爪先で軽く蹴る。
「――知ったことで、何かが変わっていく感じ、私もします。悪い方向にじゃなくて。ただ、前よりも、色んなことを、深く感じるようになった気がして」
その言葉に、晴は頷いた。
彼自身も、同じ変化を、自分の内側に感じていた。
感情の希薄だったはずの自分の中に、以前とは比べ物にならないほど、色濃い感覚が育ち始めている。
「厳しく、言われましたか」
灯が、そっと尋ねた。
晴は、少し間を置いてから、正直に答えた。
「はい。かなり」
「そうですか」
灯は、それ以上、深くは聞かなかった。
ただ、隣を歩く晴の横顔を、心配そうに見つめていた。
二人は、しばらく無言のまま、夕暮れの道を歩き続けた。
商店街の明かりが、一つ、また一つと灯り始めている。
灯の頭上には、穏やかな、けれど以前より確かに濃い色の靄が、静かに漂っていた。
それは、幸福と不安が、分かちがたく溶け合った色だった。




