第二十四話 「気づかないふり」
放課後の校門前、玲は、灯と晴が言葉を交わす様子を、少し離れた場所から見ていた。
業務の引き継ぎのため、玲がその場に居合わせるのは、いつものことだった。
校門を出てくる生徒たちの喧騒、夕方の柔らかな光、その中に、灯と晴の姿があった。
だがこの日、玲は、いつもとは違う感覚に、静かに囚われていた。
晴が現れた瞬間の、灯の表情の変化。
それまで硬さの残っていた灯の頬が、僅かに緩み、頭上の空気が、目に見えて軽くなる。
俯きがちだった視線が、まっすぐに晴の方を向く。
玲は、その一連の変化を、これまで何度も目にしてきたはずだった。
だが今日、それが何を意味するのか、玲は初めて、はっきりと言葉にできる形で理解した。
――ああ、この子は、天宮に恋をしているんだ。
その気づきは、静かに、けれど確かな重みを持って、玲の胸に落ちてきた。
手元の端末を握る指先が、ほんの少し、冷たくなった気がした。
業務の引き継ぎを終え、玲は、一人、支局への帰り道を歩いていた。
夕暮れの光が、七番区の煉瓦色の屋根を、橙色に染めている。
道端の水たまりに、その茜色が、揺れながら映り込んでいた。
灯の表情を思い出すたび、玲の中に、複雑な感情が渦巻いた。
それは、単純な嫉妬とは、少し違う種類のものだった。
灯の晴に対する想いは、玲がこれまで密かに抱き続けてきたものと、驚くほどよく似ていた。
誰かの些細な変化に気づき、その変化に心を動かされ、それでいて、簡単には言葉にできない――そういう、不器用で、真っ直ぐな想い。
その相似形に、玲は、皮肉な感慨を覚えずにはいられなかった。
自分より七つも年下の少女が、自分よりずっと素直に、その想いを抱えている。
感情を隠さず生きる灯と、感情を隠すことでしか自分を保てなかった玲――その対比が、今更ながら、玲の胸に、小さな棘のように刺さった。
自分と同じ種類の想いを、灯もまた、晴に対して抱いている。
そしてそれは、玲自身の想いよりも、遥かに深く、複雑な事情を伴っていた。
灯の想いには、監視する者とされる者という非対称な関係を越え、命がけの秘密を共有する絆までもが、織り込まれている。
玲がこれまで、同期という近しい距離の中で育んできた想いとは、根本的に、重みが違っていた。
支局に戻る途中、玲は、大嵐記念公園の外れを通りかかった。
薄い霧雨が、いつものように、静かに降り続けている。灰色の石碑が、夕闇の中に、ぼんやりと浮かび上がっていた。
玲は、その霧雨の中に、しばらく立ち止まった。傘は持っていたが、差そうとは思わなかった。
――私は、いつから、天宮を見ていたんだろう。
同期研修の記憶が、蘇る。
閾値を超えて倒れた子供を、規定を無視してでも助けようとした晴の姿。
あの時の彼の表情、迷いのない足取り、そして、後になって咎められてもなお、真っ直ぐに前を見ていた横顔
――そのすべてが、玲の記憶の中に、鮮明に焼き付いていた。
その時初めて、玲は、感情の希薄な人間だと言われ続けてきた晴の中に、誰よりも深い優しさがあることに気づいた。
それ以来、玲は、晴という人間を、誰よりも近い距離で見つめ続けてきた。
だが、その想いを、玲は一度も、言葉にしたことがなかった。
規律を重んじる自分自身の在り方と、個人的な感情との間で、玲は、常に前者を選び続けてきた。
それが、玲にとっての誇りであり、同時に、自分を守るための、静かな鎧でもあった。
誰よりも早く支局に出て、誰よりも正確に職務をこなす
――その積み重ねの裏に、玲は、言えなかった想いのすべてを、静かに埋め込んできたのかもしれなかった。
灯を見ていると、玲は、自分がこれまで選んでこなかった道
――感情を隠さず、まっすぐに誰かを想う生き方――
を、否応なく突きつけられるような気がした。
玲は、霧雨に濡れながら、静かに、自分自身に問いかけた。冷たい雨粒が、プラチナブロンドの髪を、少しずつ湿らせていく。
もし、自分がこの想いを、今からでも言葉にしたら。晴は、どう答えるだろうか。
その答えは、考えるまでもなかった。
晴の心は、すでに、灯という一人の少女に、深く根を張っている。
それは、誰の目にも明らかなほど、確かなものになっていた。
灯の頭上に浮かぶ、あの穏やかな光の色を、玲は、これまで何度も見てきた。
晴といる時だけ、灯の天気が、あんなにも優しくなることを。
玲は、自分の想いに、静かに区切りをつけることを、この瞬間、決意した。
「――気づかないふりくらい、させて」
誰に向けたものでもない、小さな呟きだった。
それは、灯への譲歩でも、晴への未練でもなく、玲自身が、自分の想いと、これからどう向き合っていくかを決めるための、たった一つの選択だった。
声に出したことのなかった想いを、これからも、声に出さないまま、胸の奥にしまっておく。
それが、玲にできる、精一杯の誇りの守り方だった。
この公園に降り続ける霧雨は、玲一人の感情によるものではない。
かつての悲劇を悼む、国全体の集合的な悲しみの表れだと言われている。
それでも玲は、自分の想いもまた、その名もない悲しみの中に、そっと紛れ込んでいくような気がしていた。
誰の目にも、それとわかることのないまま。
濡れた前髪を、玲は、指先で軽く払った。
石碑の向こうに、七番区の明かりが、ぽつぽつと灯り始めているのが見えた。
玲は、しばらくその光を見つめた後、静かに踵を返し、雨の中を歩き出した。




