第二十ニ話 「環への問い」
図書館で見つけた新聞記事の写しと、資料庫で確認した二つの家紋
――それらを手にした灯は、もう、これ以上、環の沈黙を受け入れられずにいた。
「今度は、ちゃんと聞きます。一人だと、はぐらかされて終わりそうだから」
図書館からの帰り道、灯はそう言って、隣を歩く晴を見上げた。
「晴さんも、一緒に来てくれませんか。環おばさんも、晴さんが同じことを調べているって知れば、無視できないと思うから」
晴は、少し迷った。
環にとって、監視官である自分の同席は、警戒を強める要因にもなりかねない。
だが、灯の目には、迷いのない強さがあった。晴は、静かに頷いた。
その夜、灯の家の居間には、いつもとは違う緊張感が漂っていた。
晴は、環に招かれるままソファに腰掛けたが、その表情には、隠しきれない硬さがあった。
テーブルの上、湯呑みから立ち上る湯気が、静かに揺れている。
壁にかけられた古い時計の秒針の音だけが、やけにはっきりと聞こえた。
「今度こそ、ちゃんと聞きたいんです」
灯は、環の前に、手帳に書き写した記事の内容を差し出した。
丁寧に書き写された文字の並びを、環はしばらく、無言で見つめていた。
「――どこで、これを」
「図書館です。晴さんと一緒に、調べました」
環の視線が、灯の隣に座る晴へと向けられた。
その眼差しには、これまでにない緊張が滲んでいた。
晴は、その視線を、まっすぐに受け止めた。
「東雲家の記録にも、氷雨家とまったく同じ紋章がありました。二つの家は、かつて婚姻関係にあったのではないかと考えています」
環は、湯呑みを両手で包むように持ったまま、しばらく黙っていた。
指先が、湯呑みの縁を、無意識になぞっている。
居間の壁時計が時を刻む音だけが、部屋に響いていた。窓の外、七番区の夜は、いつになく静かだった。
「――あなたたちは」
環が、ようやく口を開いた。
その声は、これまで晴が聞いたことのない、深い疲労を滲ませていた。
長年、一人で抱えてきたものの重さが、その声の端々に滲んでいるようだった。
「本当に、知りたいんですね。知ってしまえば、もう後戻りできないかもしれないのに」
「はい」
灯は、迷いのない声で答えた。
環は、その返答に、僅かに目を伏せた。
長い沈黙が、居間に流れた。
窓の外では、夕暮れから夜へと移り変わる、七番区の静かな時間が過ぎていく。
遠くで、犬の遠吠えが一度だけ響いた。
「――東雲家と氷雨家は、かつて、深い縁で結ばれた家同士でした」
環は、ゆっくりと、言葉を選ぶように話し始めた。
膝の上で組んだ手が、微かに震えているのを、晴は見逃さなかった。
「婚姻関係にあったというのは、その通りです。でも、それは、ただの家同士の結びつきじゃなかった。二つの家の血には、特別な性質があった」
「特別な性質、というのは」
晴が尋ねると、環は、一度、深く息を吸い込んだ。
まるで、長年閉じ込めてきた言葉を、ようやく解き放つかのように。
「感情の強さが、互いに影響し合う性質です。東雲の血と、氷雨の血が近づくと、それぞれの感情の反応が、通常よりもずっと強く、増幅される」
その言葉に、晴と灯は、思わず顔を見合わせた。
灯の中で膨らんできた予感、二人が出会ってから灯の反応が変化していったこと
――そのすべてが、この一言によって、静かに繋がっていくのを、二人は同時に感じていた。
テーブルの上、湯呑みの湯気が、二人の視線の間を、揺れながら立ち上っていた。
「大嵐は」
環の声が、僅かに震えた。
「大嵐は、その二つの血が、当時、あまりにも近づきすぎたことが、一因になったと言われています。真相は、私にも、正確なところはわかりません。でも、そう伝えられてきました」
居間に、重い沈黙が落ちた。
灯は、膝の上で、両手を固く握りしめていた。
爪の先が、白くなるほどに。
「――じゃあ、私と晴さんが」
灯の声は、かすれていた。
「近づけば近づくほど、また同じことが起きるかもしれないってこと?」
環は、その問いに、すぐには答えなかった。
ただ、灯の顔を、痛ましそうに見つめていた。
窓の外、雲の切れ間から覗いていたはずの月明かりが、いつの間にか、厚い雲に隠れていた。
「わからない。だから、私は、あなたにこの話をするのが、怖かった」
環の目に、初めて、涙に近いものが滲んでいるのを、晴は見た。
ろうそくの灯りのような、居間の暖色の照明が、その涙を、微かに光らせていた。
「あなたが、大嵐の悲劇を、また繰り返す存在になるかもしれない。そう思うだけで、私は、あなたにこの真実を伝えることができなかった」
灯は、しばらく何も言えずにいた。
晴もまた、言葉を失っていた。
二人の間に流れる沈黙は、これまでのどの沈黙とも違う、重く、冷たいものだった。
「――ですが」
晴が、ようやく口を開いた。その声には、これまでの彼らしからぬ、確かな強さが宿っていた。
「もしその性質が事実だとしても、それが、必ず悲劇に繋がるとは、俺には思えません」
「――晴さん」
「感情が増幅されるということは、悪い感情だけが強まるわけではないはずです。灯と一緒にいると、確かに、彼女の反応は大きくなる。ですが同時に、俺の中にも、これまで感じたことのない感情が、確かに芽生えています」
晴の言葉に、灯は、驚いたように顔を上げた。
環もまた、晴の顔を、じっと見つめていた。
「大嵐が、二つの血の近さゆえに起きたのだとしても、それが、俺たちの未来まで決めるとは限らない。俺は、そう思いたいです」
その言葉は、これまでの晴らしからぬ、強い意志を伴っていた。
環は、しばらくその顔を見つめた後、静かに息を吐いた。肩の力が、僅かに抜けたように見えた。
「――あなたたちが、そう思うのなら」
環の声には、これまでの頑なさが、僅かに緩んでいるように感じられた。
「私にできることは、もう、あなたたちを見守ることくらいなのかもしれません」
居間の窓の外、夜はすっかり深まっていた。
灯の頭上には、複雑に入り混じった色の靄が、静かに漂っていた。
不安と、それでも消えない希望が、同じ場所に同居しているような色だった。
テーブルの上、すっかり冷めた湯呑みだけが、三人の間に、静かに残されていた。




