第二十一話 「言えないこと」
中央塔から戻った翌日も、玲は、いつも通り、誰よりも早く支局に出た。
執務室の窓から差し込む朝の光は、変わらず穏やかだった。
壁の大型モニターに映る七番区の気象マップも、平常通りの緑色を示している。
玲は、その画面を見つめながら、昨日聞いた言葉を、何度も頭の中で反芻していた。
誰もいない執務室、机の上に整然と並んだ資料の輪郭だけが、朝の薄明かりの中に、静かに浮かび上がっていた。
――対象を国家の管理下に完全に置く。隔離施設への収容。
その言葉の重みは、一晩経っても、少しも軽くなっていなかった。
むしろ、時間が経つほどに、玲の胸の中で、重く沈殿していくようだった。
昨夜、寮の自室に戻ってからも、玲はほとんど眠れなかった。
天井を見つめながら、忍の低い声と、半眼の奥に潜んだ値踏みするような視線が、何度も脳裏に蘇っては消えていった。
定刻になり、晴が出勤してきた。
いつもと変わらない、平坦な足取り。
廊下を歩くその足音にすら、感情の起伏は感じられない。
玲は、その姿を見た瞬間、昨日の忍との会話が、鮮明に蘇るのを感じた。
喉の奥が、僅かに渇いた。
「――おはよう」
「おはようございます」
短い挨拶を交わし、玲はいつも通り、今日の監視スケジュールを確認する晴の隣に立った。
声も、表情も、努めて普段通りに保っていた。
だが、胸の奥では、絶えず、言葉にならない葛藤が渦巻いていた。
手元の端末を操作する自分の指先が、いつもよりわずかに強張っているのを、玲は自覚していた。
その日の学園監視の間、玲は、いつも以上に灯の様子を注意深く観察していた。
校門を出てくる灯の姿、結衣と談笑する屈託のない笑顔、時折見せる、ふとした表情の陰り
――そのすべてが、玲の目に、これまでとは違う重みを持って映った。
昼休み、中庭の井戸跡のベンチで、灯と結衣が笑い合っている様子を、玲は少し離れた並木の陰から見守っていた。
結衣が何か冗談を言うたび、灯の頭上に、淡い水色の光が滲む。
その無邪気な光景が、玲の胸を、いっそう締め付けた。
この少女が、いずれ、国家の手によって、日常から引き剥がされるかもしれない。
その事実を知りながら、玲は、いつも通りの態度で、灯に接し続けなければならなかった。
「今日も、変わりないですか」
放課後、校門の前で、いつもの決まり文句を口にしながら、玲は、自分の声が、僅かに震えていないか、内心で確かめていた。
「はい。特には」
灯は、いつも通りに答えた。
だが、ふと、探るような目で、玲の顔を見つめた。夕暮れ前の柔らかな光の中、灯の瞳が、じっと玲を見据えている。
「――玲さん、なんか、今日、元気ないですか」
その指摘に、玲は、内心で動揺した。
表情には出さないよう、努めて平静を装う。
「そんなことは、ないと思いますが」
「そうですか?」
灯は、まだ少し不審そうな顔をしていたが、それ以上は追及せず、軽く会釈をして、校門を出ていった。
玲は、その後ろ姿を見送りながら、灯の観察眼の鋭さに、改めて驚かされていた。
感情がそのまま天候に出るという体質のせいなのか、あるいは、それとは別の、彼女自身の感受性の強さゆえなのか
――灯は、他人の些細な変化を、驚くほど敏感に感じ取る。
その鋭さが、玲にとっては、今、何よりも恐ろしいものに感じられた。
灯の後ろ姿が、坂道の向こうに小さくなっていくのを、玲は、しばらくその場に立ち尽くしたまま見送っていた。
夕方、晴に監視を引き継ぐ際、玲は、いつものように、簡潔な報告だけを済ませた。
灯の学園での様子、感情反応の推移、特記事項の有無
――業務的な言葉の羅列の中に、玲は、昨日知った事実を、一言も混ぜなかった。
手元の記録用紙に視線を落としたまま、玲は、極力、いつも通りの抑揚で言葉を紡いだ。
「――何か、変わったことは」
晴が、ふと尋ねた。
玲は、一瞬、呼吸を止めた。
校門前を吹き抜ける風が、二人の間を、静かに通り過ぎていく。
「……特には、ない」
その答えは、嘘だった。
玲は、自分がこれほど自然に、嘘をつけることに、内心で驚いていた。
同時に、その嘘の重さが、これまでの人生で一度も経験したことのない種類の苦しさとして、胸の奥にのしかかってきた。
喉の奥に、小さな塊が詰まっているような感覚があった。
晴は、玲の答えに、特に疑いを持った様子もなく、小さく頷いた。
「わかりました。今日も、よろしくお願いします」
それだけ言って、晴は七番区の方角へと歩き出した。
玲は、その背中を見送りながら、拳を、強く握りしめていた。爪が、掌に、小さく食い込んだ。
――言うべきなのだろうか。
その問いは、玲の中で、繰り返し浮かんでは消えていった。
だが、忍の言葉が、その都度、玲の口を重くさせた。情報漏洩と見なされれば、お前自身の立場も、無事では済まない。
それは、単なる脅しではなく、玲自身のこれまでの人生――規律を守り、誰よりも早く支局に出て、誰よりも正確に職務をこなしてきた、その積み重ねすべてを、天秤にかけることを意味していた。
規律を捨てて、晴と灯を守るか。
規律を守り、自分自身の立場を守るか。
その天秤は、まだ、どちらにも傾かないまま、玲の胸の中で、静かに揺れ続けていた。
その夜、玲は、支局の自室で、一人、報告書の様式を開いていた。
狭い部屋の中、机の上のスタンドライトだけが、白い光を落としている。
空白のままの用紙を前に、ペンを握ったまま、彼女は長い間、動けずにいた。インクの匂いだけが、静かな部屋に漂っていた。
窓の外、七番区の方角には、いつもと変わらない、穏やかな夜空が広がっている。
灯は今頃、家で、環と静かな夕食を囲んでいるだろうか。
晴は、今日もまた、彼女のために、何かを調べているのだろうか。
二人の穏やかな時間を思うと、玲の胸は、ますます締め付けられた。
壁にかけられた小さな時計の秒針の音だけが、規則正しく、部屋に響いている。
この静けさが、いつまで続くのか。
玲には、その答えが、まだ見えなかった。
ただ、自分が今、その静けさを守るために、一人で嘘をつき続けているのだという事実だけが、重く、確かに、彼女の中に残っていた。
玲は、空白の報告書を、そっと引き出しにしまった。
鍵のかかる小さな引き出しの中、その白い紙だけが、誰にも見られることなく、静かに眠ることになる。
今夜もまた、それを提出しないまま、一日が終わろうとしていた。




