第十九話 「二人だけの秘密」
「支局の資料には、もう限界があります」
丘の上、いつものベンチに並んで座りながら、晴はそう切り出した。
風が、二人の間を静かに吹き抜けていく。
東雲家と氷雨家、二つの家紋の一致。
だが、それ以上の詳細
――なぜ両家の記録が意図的に薄くされているのか、婚姻関係が具体的にいつ、どのような経緯で結ばれたのか――
は、支局の戸籍記録だけでは、これ以上たどりようがなかった。
「公的な記録じゃない場所なら、何か残っているかもしれません」
「たとえば?」
「図書館です。特に、大嵐当時の新聞の縮刷版」
晴の提案に、灯は少し驚いたように瞬きをした。それから、悪戯っぽく笑った。
「調律士なのに、そんなアナログな方法、知ってるんですね」
「研修で習いました。国家の公式記録は、時に、都合よく編集される。だから民間の記録と、必ず突き合わせるようにと」
「――皮肉ですね。国家の職員が、国家の記録を疑えって教わるの」
灯の指摘に、晴は何も言い返せなかった。丘を吹き抜ける風の音だけが、しばらくの間、二人の沈黙を埋めていた。
七番区公立図書館は、旧市街の外れ、市場通りからさらに奥まった場所にある、石造りの重厚な建物だった。
この国では珍しく、天候に関係なく感情を鎮める効果があるとされる、分厚い石壁と小さな窓を持つ設計になっている。
建物の正面には、古びた石造りの階段が続き、両脇には、長年風雨にさらされて丸みを帯びた石の獅子像が、静かに来館者を見守るように据えられていた。
実際、館内に足を踏み入れると、外の喧騒が嘘のように消え、ひんやりとした静寂だけが満ちていた。
高い天井、古い紙とインクの匂い、そして、遠くの書架の間から漏れ聞こえる、誰かがページをめくる微かな音。
天井近くの小さな窓から差し込む光が、埃の粒子をきらきらと照らしながら、書架の間に細い筋を作っていた。
週末の午後、待ち合わせた二人は、受付で新聞の縮刷版が保管されている資料室への入館を申請した。
灯は生成り色のブラウスにカーディガンを羽織った、休日らしい軽装で、晴も、この日は非番のため、いつもの色味の乏しいシャツ姿だった。
並んで受付に立つ二人を、白髪の初老の司書は特に気にする様子もなく、淡々と手続きを進めてくれた。
古びた革表紙の入館者名簿に、晴は自分の名を、灯はその下に、少し丸みを帯びた字で自分の名を書き込んだ。
「大嵐関連の記事は、こちらの棚に」
司書に案内された一角には、色褪せた表紙の縮刷版が、年代順にずらりと並んでいた。
棚全体に、古い紙特有の、乾いた甘さを帯びた匂いが染み付いている。
晴は、十八年前の年号が記された巻を取り出し、閲覧用の木製の机に置いた。
分厚い縮刷版は、持ち上げるとずしりと重く、表紙の端が、長年の使用でわずかに擦り切れていた。
灯も、隣の椅子に腰掛け、身を乗り出すようにしてページを覗き込んだ。
二人の距離が、これまでになく近かった。
灯の黒髪が、時折、晴の肩にかすかに触れる。
彼女の髪から、微かに石鹸のような、清潔な匂いが漂ってきた。
その些細な接触と匂いのたびに、晴は、自分の意識がページの文字から逸れそうになるのを、必死に抑えなければならなかった。
机の下、灯の膝が、時折、晴の膝にごく軽く触れる。
それすらも、二人はどちらも、あえて指摘しないまま、ページをめくり続けていた。
ページをめくるたび、大嵐当時の生々しい記事が、次々と現れた。
倒壊した建物の写真、避難する人々の列、瓦礫の中から救出を待つ人々の姿、犠牲者を悼む式典の様子
――十八年前という歳月を経てもなお、その紙面には、当時の混乱と悲しみが色濃く残っていた。
灯は、ある写真の前で、思わず手を止めた。
焼け跡のような更地に、呆然と立ち尽くす人々の姿が写っている。
それは、二人が何度も訪れた、あの大嵐記念公園の、かつての姿だった。
「――あ」
灯が、不意に声を上げた。
指先が、ある記事の見出しを指していた。
紙面をなぞるその指先が、微かに震えているのを、晴は見逃さなかった。
『北部大災害、原因究明は難航 ―― 一部関係者への聴取続く』
記事の本文には、大嵐の原因について、当時から様々な憶測が飛び交っていたことが記されていた。
そして、その中の一文に、晴の目が釘付けになった。
「――特定の家系における感情反応の異常が、一因として調査されている、とあります」
晴が声に出して読み上げると、灯の表情が強張った。
記事には、家系の名前までは明記されていなかった。
だが、その一文の存在自体が、二人がこれまで抱いてきた予感を、静かに裏付けるものだった。
窓から差し込む光が、ページの上で微かに揺れていた。
「じゃあ、やっぱり」
「まだ、断定はできません。ですが」
晴は、その記事を、持参した手帳に丁寧に書き写した。
ペン先が紙に触れる音だけが、静かな資料室に、小さく響いていた。
灯は、その様子を、身じろぎもせず、じっと見つめていた。
閉館の時間が近づき、司書の合図で、二人は資料室を後にした。
図書館の外に出ると、夕暮れの光が、石畳の道を橙色に染めていた。
石の獅子像も、その光を浴びて、昼間とは違う、柔らかな輪郭を見せている。
「今日、色々見つかりましたね」
灯が、隣を歩きながら言った。
その声には、疲労と、それでいて奇妙な高揚感が入り混じっていた。
夕方の風が、彼女の黒髪と、毛先の淡いブルーを、緩やかに揺らしている。
「まだ、断片的ですが」
「それでも、一人で抱えてた時とは、全然違います」
灯は、晴の方を見て、小さく微笑んだ。
夕陽が、彼女の横顔を、橙色に縁取っていた。
「晴さんと一緒に調べてると、怖さより、なんだかワクワクする気持ちの方が強い。おかしいですかね、こんな状況で」
「――おかしくは、ないと思います」
晴は、正直にそう答えた。
彼自身も、同じ感覚を抱いていた。
一人で抱えていた謎が、今は、灯という同志と共有するものになっている。
それは、これまでの人生で一度も経験したことのない、不思議な連帯感だった。
「これ、私たちだけの秘密ですね」
灯は、悪戯っぽく人差し指を立て、唇の前に添えた。
夕暮れの光の中、その仕草には、これまでにない親密さが滲んでいた。
「環おばさんにも、玲さんにも、まだ内緒」
「――はい」
晴は、頷いた。
二人だけの秘密。
その言葉の響きが、晴の胸に、これまでにない、温かな重みを持って沈んでいった。
図書館前の階段を降りながら、二人の影が、夕暮れの光の中で、長く伸びて重なり合っていた。
灯の頭上には、穏やかな橙色の光が、街並みの色と溶け合うようにして広がっていた。




