第十八話 「優しい雨」
白鷺玲という監視官は、灯にとって、これまでの誰とも違う存在だった。
最初の数日、灯は正直、身構えていた。
晴以外の調律士が、自分の生活の中に踏み込んでくることに、拒絶に近い感覚を覚えていた。
調律省の制服に身を包んだ玲が校門の前に立つ姿を初めて見た朝、灯は思わず足を止めそうになった。
プラチナブロンドをきっちりと結い上げ、寸分の隙もない立ち姿で佇む彼女は、遠目にも、これまでの調律士とは違う、何か張り詰めた空気を纏っているように見えた。
だが玲は、灯が思っていたよりも、ずっと静かに、そして丁寧に、その役割をこなしていた。
朝、校門をくぐる灯に、必要以上に近づくこともなく、かといって遠巻きに監視するだけでもない、絶妙な距離感を保っている。
その振る舞いには、規則を機械的になぞるだけではない、何か独自の配慮のようなものが感じられた。
学園の正門近く、いつも同じ場所に立つ玲の姿を、灯はもう見慣れつつあった。
朝の光の中、彼女の白に近い髪が、時折風に揺れる。
晴のように話しかけてくることはほとんどなく、ただ、必要な時にだけ、簡潔な言葉を交わす。
それが、灯にとって、意外なほど心地よい距離感だった。
「――今日も、変わりないですか」
放課後、校門を出たところで、玲がそう声をかけてきた。
夕方の生徒たちの喧騒が、校門の周りに満ちている。
灯は、少し驚きながらも頷いた。
「はい。特には」
「そうですか」
それだけで、玲は視線を手元の端末に戻す。
指先で画面を数回タップし、記録を確認する仕草には、無駄がなかった。
事務的だが、どこか丁寧なその態度に、灯は、次第に安心感を覚えるようになっていた。
ある日の放課後、正門から少し離れた並木道
――かつて晴がよく身を隠していた、あの場所で、玲がふと、灯に尋ねたことがあった。
木々の葉が、風に吹かれてさらさらと音を立てている。
「――天宮とは、うまくやっていますか」
その問いに、灯は一瞬、返答に詰まった。
玲の表情から、その質問の意図を読み取ろうとしたが、彼女の顔には、いつもと変わらない、静かな無表情が浮かんでいるだけだった。
ただ、その口調のどこかに、事務的な確認とは違う、僅かな含みがあるような気がした。
「うまく、というか。……普通に、話せる相手です」
「そうですか」
玲は、それ以上深追いすることなく、話を切り上げた。
だが、その一瞬の間に、灯は、玲の頭上に、ごく薄い、灰色がかった靄が浮かぶのを見た気がした。
それはすぐに、風に流されるように消えてしまい、確信は持てなかった。
だが灯は、その一瞬の色に、玲という人が抱えている、何か複雑な感情の存在を、直感的に感じ取っていた。
結衣であれば、こういう場合、遠慮なく踏み込んで聞いてしまうのだろう。
結衣の屈託のない笑顔を思い浮かべながら、灯はそう思った。
だが灯は、玲に対して、そこまで踏み込むことができなかった。
この人には、この人なりの、触れられたくない領域があるのだろうと、灯は静かに察していた。
玲の背筋の伸びた後ろ姿を見送りながら、灯は、自分と同じように、この人もまた、何かを抱えて生きているのかもしれないと、ぼんやり考えていた。
その日の夕方、玲との監視が引き継がれ、代わりに晴が現れた。七番区へと続く坂道の入り口、いつもの場所に、調律省の詰襟コートを纏った晴が立っている。
灰色とオフホワイトを基調にした、あまり色味のない制服姿は相変わらずだったが、灯はもう、それを見るたびに、小さく口元が緩むのを感じるようになっていた。
晴は、いつものように、少し離れた距離を保ちながら、灯の隣を歩いていた。
夕暮れの光が、二人の影を、道の端に長く伸ばしている。
商店街の喧騒が、遠くから微かに聞こえてきた。
魚屋の呼び込みの声、自転車のベルの音、どこかの家から漂ってくる夕食の匂い
――七番区のいつもの、変わらない夕方の風景だった。
七番区に向かう道すがら、灯はふと、自分の中に生まれていた、ある感覚に気づいた。
玲と一緒にいる時、灯は、常にどこか気を張っていた。
監視される側としての緊張、初対面の相手への警戒
――それらが、無意識のうちに、灯の心を落ち着かなくさせていた。
だが、晴と一緒にいる時は、違う。
彼女は、隣を歩く晴の横顔を、そっと盗み見た。
相変わらず、表情の変化に乏しい顔。
整った輪郭と、薄い水色の瞳。
前髪の隙間から覗くその瞳は、今日も、いつもと変わらず静かだった。
だが、その静けさが、今の灯にとっては、不思議なほど心を凪がせる存在になっていた。
「――晴さん」
「はい」
「私、気づいたことがあるんです」
灯は、足を止め、空を見上げた。
夕暮れの光の中、彼女の頭上には、穏やかな薄紅色の靄がかかっている。
それは、怒りでも悲しみでもない、ただ静かな、満ち足りた色だった。
周囲の空は、茜色に染まり始めており、灯の頭上の薄紅色は、その茜色と溶け合うようにして、柔らかな境界を作っていた。
「玲さんといる時と、晴さんといる時で、私の天気、全然違うんです」
「――どう、違うんですか」
「玲さんといる時は、なんだか、ずっと小雨が降ってる感じがする。ぽつぽつって、落ち着かない感じ。でも、晴さんといる時は」
灯は、言葉を探すように、少し考え込んだ。
道端に咲く小さな野草が、夕風に揺れている。
灯はそれをぼんやりと見つめながら、自分の内側にある感覚を、丁寧に言葉に変換しようとしていた。
「同じ雨でも、優しいんです。降ってても、嫌な感じがしない。むしろ、心地いいくらい」
その言葉に、晴は、僅かに歩調を緩めた。
灯は、彼のその小さな反応を見逃さなかった。
表情はほとんど変わらないのに、歩幅のわずかな乱れだけが、彼の内側の動揺を物語っていた。
灯は、そういう晴の"わかりにくいけれど確かにある"反応を見つけるのが、いつからか、密かな楽しみになっていた。
「晴さんといると、雨が優しくなる」
灯は、独り言のように、その言葉を繰り返した。
夕暮れの光が、彼女の黒髪と、毛先の淡いブルーを、柔らかく照らしていた。
坂道の向こうに、七番区の煉瓦色の屋根が、茜色に染まりながら連なっているのが見える。
晴は、しばらく何も答えなかった。
だが、その沈黙の中に、これまでとは違う、確かな温度が滲んでいるのを、灯は感じ取っていた。
二人の間に流れる沈黙は、以前のような、監視する者とされる者の間にあった緊張ではなく、もっと穏やかな、寄り添うような静けさだった。
道の端、電柱に灯った街灯が、ぽつり、ぽつりと点り始めている。
灯の頭上、薄紅色の靄は、夕暮れの空に溶け込むように、いつまでも優しく漂い続けていた。




