第十五話 「同じ謎」
その週末、晴が丘に向かったのは、前日の別れ際に交わした、灯からの短い一言がきっかけだった。
「明日、丘に行きませんか」
下校の道すがら、灯はそう言った。
いつものように学園の観測を終え、二人で並んで歩いていた時のことだった。
その一言に滲む硬さに、晴はいつもと違う何かを感じ取っていた。
約束の時刻、晴が丘に着くと、灯はすでにベンチに座っていた。
膝を抱えるようにして座るその姿勢は、これまで晴が見てきた彼女の、屈託のない佇まいとは違っていた。
「――早かったですね」
晴が声をかけると、灯は顔を上げた。
目の下に、僅かな疲れの色が滲んでいる。
「あんまり、眠れなくて」
晴は、ベンチの隣に腰を下ろした。
丘の上には、いつもと変わらない風が吹いている。
木々の葉が擦れ合う音、遠くから響く小鳥の声。
だが、隣に座る灯の頭上には、これまで見たことのない、複雑な色の靄がかかっていた。
灰色と、薄い青が入り混じった、名前のつけようのない色だった。
「何かあったんですか」
晴が尋ねると、灯は、しばらく黙って膝を抱え直した。
それから、ゆっくりと、言葉を選ぶように話し始めた。
「環おばさんに、両親のことを聞いたんです」
「――何と、答えていましたか」
「はぐらかされました。話したくない、まだその時じゃない、って」
灯は、丘の下に広がる街並みを見つめながら続けた。
「氷雨っていう名字は、お父さんの家の名字だって。それだけ教えてもらえて、あとは何も」
晴は、自分の胸の中で、何かが静かに反応するのを感じた。
東雲家の途切れた家系図、名簿にない両親の名前――自分自身が抱えている謎と、灯が今語っていることが、どこか深いところで共鳴しているような感覚があった。
だが晴は、まだ、自分の調べたことを彼女に話す決心がついていなかった。
それを口にすれば、灯を、さらに危険な場所に引きずり込むことになるかもしれない。
その恐れが、彼の言葉を押しとどめていた。
「晴さん」
灯が、不意に晴の方を向いた。
真剣な、これまでにない強さを帯びた目だった。
「ずっと、考えてたんです。私の中の、この感情の激しさ。環おばさんが頑なに隠そうとする、両親のこと。大嵐記念公園に行くたびに感じる、あの居心地の良さと、居心地の悪さが入り混じったような感覚――全部、繋がってる気がして」
「――繋がっている、というのは」
「もしかしたら」
灯は、一度息を吸い込み、それを吐き出すようにして、言葉を続けた。
「私の家族と、大嵐は、無関係じゃないのかもしれない。私が、こんなに感情が強いのも、環おばさんが名字のことすら話したがらないのも、全部、そこに理由があるんじゃないかって」
晴は、何も言えなかった。
灯の言葉は、彼自身が資料庫で感じ取った違和感と、あまりにも近い場所にあった。
沈黙が、二人の間に流れた。
丘を吹き抜ける風だけが、その静けさを埋めていく。
灯は、隣に座る晴の顔を、じっと見つめた。
「――晴さんも、何か知ってるんじゃないですか」
その問いに、晴の心臓が、僅かに跳ねた。
灯の観察眼は、これまでの彼女とのやり取りの中で、晴が思っている以上に鋭くなっていた。
「……調べていることは、あります」
晴は、慎重に言葉を選びながら答えた。
「まだ、確かなことは何も言えません。ですが、俺自身の家族についても、公式な記録に、説明のつかない欠落があります」
灯は、目を見開いた。
「晴さんの、家族にも?」
「はい」
二人の間に、これまでとは違う種類の緊張が生まれた。
それは、監視する者とされる者の間にあった緊張とは違う、対等な、同じ謎の前に立つ者同士の緊張だった。
灯は、しばらく晴の顔を見つめた後、ゆっくりと口を開いた。
「――ねえ、晴さん」
「はい」
「私たちの家、繋がってるのかもしれない」
その一言は、丘の上に、静かに、けれど確かな重みを持って響いた。
灯自身、まだそれが何を意味するのか、正確にはわかっていないようだった。
ただ、長年胸の奥に抱えてきた予感が、初めて、はっきりとした言葉の形を取っただけだった。
晴は、その言葉を、しばらく黙って受け止めていた。
否定する材料も、肯定する確証も、今の彼にはなかった。だが、これまで別々に抱えてきた謎が、今この瞬間、初めて、同じ一本の道の上に並んだような感覚があった。
「――一緒に、調べてみませんか」
晴が言うと、灯は、少し驚いたように瞬きをした。
それから、これまでの不安を振り払うように、小さく、けれど確かに頷いた。
「うん。一人で抱えてるの、もう疲れた」
丘の上に、静かな決意が芽生えていた。
灯の頭上の複雑な靄は、少しずつ、晴れていくように見えた。
完全に晴れたわけではない。
だがそこには、これまでとは違う、二人で前を向くための、小さな光が差し込み始めていた。




