第十四話 「逃げている気がする」
夕食の後片付けを終えた居間には、いつもと変わらない、穏やかな時間が流れていた。
環は編み物をしながら、時折、テレビ代わりに置かれたラジオに耳を傾けている。
灯は、その向かいのソファに座り、宿題のノートを広げていたが、ペンはさっきから、同じ場所で止まったままだった。
窓の外は、すでに暗くなっている。
七番区の夜は静かで、時折、遠くを歩く誰かの足音や、犬の鳴き声が、微かに聞こえてくるだけだった。
灯は、その静けさの中で、ずっと考えていたことを、ようやく口にした。
「――ねえ、環おばさん」
「なあに」
環は、編み針を動かす手を止めずに答えた。
柔らかな毛糸が、規則正しい音を立てて絡み合っていく。
「私のお父さんとお母さんって、どんな人だったの」
その瞬間、編み針の動きが、一瞬だけ止まった。
ほんの僅かな間だったが、灯はそれを見逃さなかった。
「――急に、どうしたの」
「ずっと、気になってて。私、環おばさんに育ててもらったのは知ってるけど、その前のこと、何も聞いたことがなかったなって」
環は、編み物を膝の上に置き、静かに息をついた。
ラジオから流れる音楽が、しばらくの間、部屋を満たしていた。
「大嵐の時に、あなたのご両親は、亡くなったの」
「うん、それは、聞いたことがある。でも、それだけ。どんな人だったのか、名前も、顔も、何も知らない」
灯は、膝の上で手を組み、じっと環の顔を見つめた。
「私、氷雨っていう名字でしょう。この名字、どこから来たのか、聞いてもいい?」
環は、しばらく黙っていた。
膝の上の毛糸玉が、灯の視線の先で、ゆっくりと回転する。
「氷雨、というのは、あなたのお父さんの家の名字よ」
「それだけ?」
「それだけ」
環の声は、いつもより、僅かに硬かった。
灯は、その硬さの奥に、何か言葉にならないものが押し込められているような気配を感じ取った。
「環おばさんは、私のお父さんやお母さんと、どういう関係だったの」
「――知り合いだったの。大嵐の前に」
「どんな知り合い?」
「灯」
環は、初めて、はっきりとした口調で灯の名を呼んだ。
それは、これまで灯が聞いたことのない、拒絶に近い響きを持っていた。
「その話は、今はしたくないの」
「――なんで」
「なんでも。ただ、まだ、その時じゃないから」
灯は、その言葉に、胸の奥が僅かにざわつくのを感じた。
頭上に、灰色の靄が薄く広がり始める。
環は、それにすぐに気づいたのだろう、編み物を脇に置き、灯の隣に移動して腰を下ろした。
「ごめんね。意地悪をしているわけじゃないの」
環の声は、先ほどよりも柔らかくなっていた。
だが、その柔らかさの奥にある頑なさは、少しも揺らいでいなかった。
「あなたを守るために、話せないことがあるの。それだけは、信じてほしい」
「守るため、って」
灯は、環の顔を見つめた。
長年、実の親のように自分を育ててくれたこの人が、今、何か大きな秘密を抱えていることは、灯にも薄々わかっていた。
だが、その秘密の輪郭は、依然として、霧の向こうにあるように、はっきりとは見えなかった。
その夜、灯は自室のベッドに横たわりながら、天井を見つめていた。
窓の外には、変わらず静かな夜空が広がっている。
だが灯の心の中には、これまでにない不安が、静かに渦を巻いていた。
環がなぜ、両親について語ろうとしないのか。
氷雨という名字が、なぜこれほどまでに、環を緊張させるのか。
そして、大嵐記念公園を訪れるたびに感じる、あの言いようのない予感
――もし自分が、あの事件と何か関係があるのだとしたら。
灯は、ベッドの上で寝返りを打った。
部屋の壁には、幼い頃から使っている古い棚があり、その上に、環が編んでくれた小さな人形が置かれている。
色褪せたその人形を見つめながら、灯は、これまで一度も言葉にしたことのなかった感覚を、ぽつりと呟いた。
「私、何かから逃げてる気がする」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。
ただ、自分自身の中に長く積もっていた違和感が、初めて、明確な言葉の形を取っただけだった。
知りたい、という気持ちと、知るのが怖い、という気持ちが、灯の中で、絶えずせめぎ合っていた。
もし本当に、自分が大嵐と関係しているのだとしたら
――その事実を知ってしまえば、これまで積み上げてきた、環との穏やかな日々や、結衣との友情や、そして晴と過ごす時間さえも、何か取り返しのつかない形で、変わってしまうのではないか。
その恐れが、灯の中で、知りたいという欲求と同じくらい、強く根を張っていた。
窓の外、雲ひとつない夜空に、いくつかの星が瞬いている。灯は、その星々を見つめながら、いつまでも眠りにつくことができずにいた。




