表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
空が壊れるほどの恋だった  作者: Kakou
【第一部】第二章
PR
13/94

第十三話 「見て見ぬふり」

白鷺玲しらさぎ れいの一日は、いつも同じ時刻に始まる。


夜明け前、まだ空が藍色を残している時間に目を覚まし、身支度を整え、誰よりも早く支局に出る。

それが、彼女が同期研修の頃から続けてきた習慣だった。

規律正しさは、玲にとって、単なる美徳ではなかった。

それは、自分自身を保つための、数少ない拠り所だった。


この日も、玲は誰もいない執務室で、一人、書類に目を通していた。

窓の外はまだ薄暗く、支局の照明だけが、机の上に整然と並んだ資料を照らしている。

手元にあるのは、氷雨灯に関する、この一週間の観測記録だった。


数値は、明らかに落ち着きを見せていた。

専属監視が始まった当初の乱高下が嘘のように、彼女の感情反応は、緩やかな波を描くようになっている。

それ自体は、喜ばしいことのはずだった。

だが玲は、その数値の裏にあるものを、誰よりも正確に読み取っていた。


落ち着いたのではない。

天宮晴という存在が、彼女の中に、安定した居場所を作り始めているだけだ。


玲は、ペンを置き、窓の外に視線を移した。

夜明けの光が、少しずつ、街の輪郭を浮かび上がらせていく。


彼女の頭上には、誰にも気づかれないほど薄い、灰色の靄が、ずっとかかっていた。

支局内という閉ざされた空間だからこそ、辛うじて視認できる程度の、微かな感情の揺れ。

それは、この一週間、片時も晴れることがなかった。


規定上、専属監視対象の反応に、これほど明確な"改善"が見られた場合、担当者はその要因を分析し、上位機関に報告する義務がある。

玲は、その規定を、誰よりもよく理解していた。そして、その報告が意味するところも。


もし晴と灯の関係性が、正式に報告書として提出されれば

――忍のような上層部の人間は、それを見逃さないだろう。

専属監視官が対象に個人的な感情を抱いていること自体が、規定違反として問題視される。

最悪の場合、晴は担当を外され、灯はより厳格な、そして冷徹な監視体制の下に置かれることになる。


玲は、机の引き出しから、まだ提出していない分析報告の草案を取り出した。

数行だけ書きかけたまま、その先が、どうしても進まずにいた。



同期研修の頃の記憶が、不意に蘇った。


あの頃、玲と晴は、同じ班に配属されていた。

感情の起伏を計測する演習で、玲はいつも上位の成績を収めていた。


冷静に、正確に、感情を数値として処理する能力に長けていたからだ。

だが晴は違った。

彼は、数値の扱いには長けていたが、それ以上に、対象者そのものを見ようとする癖があった。


ある日の演習中、閾値を超えて倒れた子供がいた。

規定であれば、まず本部に連絡し、指示を仰いでから対応するのが手順だった。

だが晴は、その手順を無視して、子供を真っ先に医務室へと運んだ。

後になって、彼はその判断を咎められたが、晴は表情ひとつ変えずに、こう言った。


「規定より先に、目の前で苦しんでいる人がいました」


その言葉を聞いた瞬間、玲の中で、何かが静かに動いた。

感情の希薄な人間だと言われ続けてきた晴が、実は誰よりも深く、人のことを考えている。

その矛盾した在り方に、玲は惹かれた。

だが、その想いを、彼女はこれまで一度も、言葉にしたことはなかった。


規律を重んじる自分と、規律の外側で誰かを想う自分

――その二つを、玲は器用に使い分けてきたつもりだった。

だが今、灯という存在を通じて、その均衡が、静かに崩れ始めていた。



「――玲さん、早いですね」


 声をかけられ、玲は顔を上げた。

同僚の一人が、欠伸をかみ殺しながら執務室に入ってきたところだった。

玲は素早く、書きかけの報告書を引き出しにしまった。


「いつも通りです」


そっけなく答え、玲は席を立った。

窓の外には、すっかり朝の光が満ちている。

今日も、晴が七番区に向かう時間が近づいていた。


玲は、廊下の窓から、支局を出ていく晴の後ろ姿を見送った。

私服姿の彼は、今日は非番のはずだった。

それでも灯の元へ向かう彼の足取りに、迷いは見られなかった。


――もし私が、この報告書を提出したら。


玲は、自分の胸に、静かに問いかけた。


もし提出すれば、晴は担当を外されるだろう。

そうなれば、彼が抱え始めているらしいあの感情も、やがて自然に消えていくのかもしれない。

危険な対象との接触を絶たれ、彼はまた、これまで通りの、感情の希薄な調律士に戻るのかもしれない。


それは、玲にとって、決して悪い未来ではないはずだった。

晴が灯から離れれば、玲にとっての障害は、一つ減ることになる。


だが――。


玲は、廊下の窓に映る自分の顔を、しばらく見つめていた。

ガラスに映るその表情は、彼女自身が思っているよりも、ずっと疲れて見えた。


「私が黙っていれば、晴は幸せなのかな」


誰に聞かせるでもなく、玲はそう呟いた。

その声は、静かな廊下に、小さく溶けて消えていった。


もし報告しなければ、いずれ忍のような人間が、別の経路で気づくかもしれない。

そうなれば、玲の不作為もまた、責任を問われることになるだろう。

それでも、玲は、引き出しの中の報告書を、今日もまた、提出しないままにしておくことに決めた。


それが、玲にできる、精一杯の"味方"の仕方だった。

誰にも気づかれないまま、誰の記憶にも残らないまま、ただ、見て見ぬふりを続けること。


窓の外、晴の後ろ姿は、すでに小さくなっていた。

玲は、その姿が完全に見えなくなるまで、じっと目で追い続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
次のエピソードが気になって夜しか寝れません
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ