第6話
こんな自分に、今さら何をさせたいのか。
こんな自分に、今さら何ができるのか。
駆け引きめいたことを好まないエリシアは、率直にそれを問うた。
「フェルディナント様は、私に何を望んでおられるのですか?」
丁寧な言葉だが、冷たい問いだった。
フェルディナントの温かな善意に対し、『いろいろどうも。さて、見返りに何が欲しいのですか?』と尋ねているのと同義だからだ。だがフェルディナントは気を悪くした様子もなく、あっけらかんと答える。
「べつに何も」
?
べつに?
何も?
……これは何かの駆け引きだろうか? 交渉事に疎い自分にはわからない、高度な取引手法なのだろうか? 思ってもいなかった回答に、エリシアは少しだけ慌てて言葉を紡いでいく。
「何も望まないのに、立派なお部屋やお食事、立派なドレス。そして国賓としての待遇をしてくださっているのですか?」
「そういうことになるな」
またしても、あっけらかんとした言葉。エリシアの心に、言いようのない不安が巻き起こる。何も望まないのに良くしてくれる人など、エリシアの人生の中ではありえない人間だ。ずっと悪意にさらされてきて、それが当然だったエリシアにとって、理由なき善意はもっとも理解から遠い感情だった。だから不安になるのだ。
困惑するエリシアを諭すように、フェルディナントは静かに言葉を紡いでいく。
「正直に言うなら、きみが鹿の邪気を浄化したのを見た時は、その力でこの国を良くしてほしいとは思った。あの森のように、しばしば邪気が溢れ出すことはよくあるからね。きみがそれをどうにかしてくれるなら、ありがたいことではある」
エリシアはホッとした。
なんだ、結局それが望みか。
しかし、フェルディナントの話はまだ終わっていなかった。
「だが、きみに邪気の浄化を頼む気はない。……黒くなったその手は邪気を祓い、『魔』の力を抑え続けた後遺症なのだろう? きみの体はもう限界だ。もう充分に頑張った。そんな人に、これ以上重荷を背負わせたくはない。後はこの国で、望むまま、健やかに過ごしてほしい」
それは、エリシアの理解を遥かに超えた善意――というか、大いなる愛情のようなものだった。わからない。まったく理解できない。そんなことをして、フェルディナントに何の得があるのか? モラスケインにどんな国益があるのか?
思った通りのことを、エリシアは口に出した。
「私が健やかに過ごしたとして、フェルディナント様に何の得があるのですか?」
フェルディナントはやや苦笑し、静かに答える。
「俺が何か得をしなければ嫌なのかい?」
「い、嫌というか……納得できません……こんな……こんなこと……」
エリシアはわなわなと口を震わせ、混乱の極みにある頭からやっとのことで言葉を紡ぎ出していく。
「バロンディーレの人々は利己的です。自分の得にならないことは決してしません。感謝の言葉すら、めったに口にはしません。そして、他人を傷つければ傷つけた分、自分が栄えると思っています。私はそんな国で育ちました。だからフェルディナント様のお心がわかりません。分からなくて、不安で、怖いんです……」
ぶつ切りの感想のような、たどたどしい告白だった。
しかし、純粋な気持ちの吐露であった。
フェルディナントは一瞬あわれむような目でエリシアを見た後、再び優しい微笑に戻り、穏やかにエリシアを諭していく。
「俺の心は、そんなに困惑しなきゃならないほど難しいもんじゃないよ。俺はただ、きみが今言ったような『利己的で感謝の言葉すら口にせず、他人を傷つければ傷つけた分、自分が栄えると思っている』ような人間になりたくないだけさ。だから、そういう連中の逆をやるんだ」
「で、でもそれじゃあ……」
「なんの得もないって? そうでもないよ。『良いことをする』って、それだけで気分がいいもんだよ。『正しいことをしている』って信じられるのは、もっといい。……きみも『正しいことをしている』と信じられたから、追放されるまで過酷な聖女の務めを果たしてこられたんじゃないのか?」
その通りだった。
誰にも感謝されなくても。
何の得にならなくても。
自分が『正しいことをしている』という信念は、それだけで力になる。
エリシアは誰よりもそれを知っている。
まったく理解できなかったフェルディナントに対し、エリシアは一瞬で共感を得た。彼はエリシアが生まれて初めて出会った『正しいことのために損得抜きで行動できる人間』だった。
二人は互いに見つめ合い、しばし沈黙する。
フェルディナントが不意に照れたように視線をそらし、口を開いた。
「まあ、その、偉そうなことを言ったけど、別に『正しいことをしたいから』って理由だけできみを厚遇してるわけじゃないよ。自らの身を犠牲にしてまで鹿を助けた優しさに心を打たれたからってのが一番大きな理由さ。好感を抱いた相手には優しくしたくなるもんだろう?」




