第4話
「いやいや、こんな森の中で男三人と遭遇し、警戒しない方がおかしい。実際、野盗がうろついていることもあるしな。お節介かもしれないが、とくに用事がないならすぐに森を抜けた方がいい。もうすぐ暗くなる」
砕けた口調だが、純粋な善意に溢れた言葉だった。蔑みと悪意に満ちた言葉ばかりぶつけられてきたエリシアにとって、それはとても新鮮で、温かな言葉でもあった。
そこで、エリシアの表情がサッと曇る。鹿の邪気を浄化したときに手袋を外したままで、あのベルクトズス王が『汚い手』『まるで呪われた魔物』と忌み嫌った黒い手を露出したままにしていたことに気づいたからだ。当然、金髪の青年も、その従者たちもこの手を目撃している。
言いようのない羞恥心がエリシアを襲った。何度でも言うが、エリシアはこの黒い手を恥だと思っていない。聖女の責任を果たしてきた証として、誇らしくすら思っている。……しかし、この手を見た人がどう思うかというのは、また別の話だ。
いくら自分で誇りに思っていても、初対面の人――それも、自分に好意的な言葉をかけてくれた人に、この手を見られて『なんて汚い手だ』『まるで魔物だ』と思われるのは辛かった。だから、慌てて"新雪のように白い"手袋で黒い手を覆い隠そうとする。
そんなエリシアに『慌てる必要はない』というように、金髪の青年はなるべく穏やかで、優しい声で語りかけた。
「その……盗み見する気はなかったんだが、弱った鹿を回復させたあの力は見事だった。あれはいったい、何をしたんだ?」
その問いに答えるべきか答えぬべきか、エリシアはほんのわずかな時間だが迷った。答えれば、自分が大国バロンディーレの聖女であったことを告白しなければならない。
率直に言って、バロンディーレの民は近隣の国々から良く思われていない。彼らは自分たちの住んでいる土地を神に選ばれた特別な土地だと思っており、自らを神の民と信じ、他国の人間を下に見ている。エリシアがそのバロンディーレの聖女であったと知ったら、今は好意的な金髪の青年の瞳が、一瞬で嫌悪に変わるかもしれない。
だからと言って、偽りを述べるのも不誠実。
なので結局、エリシアはすべてを包み隠さず話した。
金髪の青年は、エリシアの話が終わると大きく頷く。
「バロンディーレにとてつもない魔力を持つ聖女がいるとは聞いていたが、きみがそうだったのか。先程の回復魔法は本当に素晴らしかった。魔力もさることながら、弱った動物を見捨てない心根の清らかさに俺は感動したよ」
その言葉は、エリシアにとって衝撃的なものだった。魔力の高さを評価されることはあっても、心根を褒められることなど一度もなかったからだ。これまで、あまりにも侮蔑の言葉のみを投げかけられてきたので、金髪の青年の真っすぐで優しい言葉が、何かの冗談なのではないかと疑うほどだった。
だが、誠実なまなざしでこちらを見つめる彼の瞳が、冗談でもからかいでもないことを伝えてくる。……嬉しかった。金髪の青年にとっては何気ない言葉だったのかもしれないが、その『何気ない言葉』でエリシアはこれまでの苦労が報われたような気持ちになった。
気がつけば、目が潤んでいる。これも初めてのことだった。これまで、エリシアはどんなにつらくても涙を流したことなどない。だが今『つらい涙』ではなく『喜びの涙』が流れそうになっている。さすがに、初対面の人の前でぽろぽろと泣き出してはあまりにも変なので、どうにかそれは堪え、足早にその場を去ろうとする。
「そ、それでは私はこれで……」
そんなエリシアを、金髪の青年は慌てて呼び止めた。
「ちょっと待ってくれ、聖女様。さっきも言ったが、このあたりは野盗が徘徊していることもある。女性の一人旅はあまりお勧めできない」
そう言われても、一人しかいないのだから、一人で旅を続けるしかない。行く当てもないし、会いたい人もいない。旅をして、流れ流れて、どこかで野盗に殺されるなら、それもまた人生だろう。
あらゆる苦痛を経験していたエリシアは、もう人生に期待しておらず、ある意味達観していた。もちろんわざわざ苦しんで死にたいとは思っていないが、安楽に長生きしたいとも思っていなかった。
率直に言うと、もうどうでもよかったのだ。幼い頃から、ずっと冷たい言葉を投げかけられ、人格を否定され続けた人間はこうなってしまうのかもしれない。エリシアの瞳に映るのは寒々しいほどの『虚無』だった。
金髪の青年もそれに気づき、一歩距離を詰めてつぶやく。
「きみは、なんて目をするんだ……」
そして、しばらく沈黙した後。
彼は『良いことを思いついた』というように微笑みかける。
「聖女様。先程の鹿を救ってくれたお礼をしたい。賓客として、共に来てはくれないだろうか。きみが望むのなら、好きなだけうちにいてくれてもかまわない」
おかしな提案だった。
エリシアが救ったのは野生の鹿だ。
誰の所有物でもない。
なのに、なぜ彼がお礼をするのだろう。




