#008 「隼人の夢」
夜風が、開け放たれた窓から入り込む。薄いカーテンが静かに揺れ、机の上の端末が淡く光っていた。久遠野の夜は静かだった。街灯の明かりが道路を照らし、遠くを走る車の音だけが微かに聞こえてくる。
隼人はベッドの上で眠っていた。浅い眠りだった。夢を見ている。そうと分かるほど曖昧な夢だった。
――ねえ。
誰かの声がした。暗闇の中に街の輪郭が浮かび上がる。
久遠野の夜景だった。だが、少し違う。建物の位置。道路の形。街灯の並び。どれも見覚えがあるのに、どこかが違う。
まるで記憶を手描きで写したみたいに。微妙にずれていた。夢の中の隼人は立ち尽くしていた。手には見慣れない端末が握られている。冷たい。それだけが妙にリアルだった。
「……ここ、どこだ」
返事はない。ただ風だけが吹いている。夜空を見上げる。星が揺れていた。いや。揺れているのは空そのものだった。黒い天井の向こう側に、もうひとつ別の空が重なっているみたいだった。
――覚えてる?
また声がする。男とも女とも分からない。子どもにも聞こえるし、大人にも聞こえる。不思議な声だった。
「誰だよ」
隼人は辺りを見回した。街灯の下。誰かが立っている。逆光で姿は見えない。顔も分からない。ただ、そこに誰かがいた。
「お前、誰なんだ」
問いかけても答えは返らない。代わりに街の光が揺らぎ始める。ビルの窓。道路の標識。信号機の光。すべてが粒子になって空へ溶けていく。久遠野が崩れていく。まるで砂の城みたいに。
「おい、待て……」
隼人は思わず手を伸ばした。届かない。街灯の下の誰かも遠ざかっていく。その姿が消える直前。声だけが聞こえた。
――明日は、どこから始まると思う?
「は?」
突然の問いだった。
「起きたときだろ」
隼人は答える。すると声は静かに笑った気がした。そして。
――違うよ。
風が吹く。世界が白く染まる。光が視界を埋め尽くす。
最後に残ったのは、その言葉だけだった。
――思い出したときに始まる。
次の瞬間。隼人は目を覚ました。
「……っ!」
上半身を起こす。胸が速く脈打っている。窓の外には夜の久遠野。街灯の光。静かな住宅街。見慣れた風景。
夢だった。ただの夢。そう思おうとした。だが。胸の奥に妙な感覚が残っている。
何か大切なことを忘れているような。何かを思い出しかけているような。
「なんだったんだ……」
時計を見る。深夜二時過ぎ。部屋には誰もいない。端末も沈黙したままだった。
隼人は再びベッドへ横になる。眠ろうとする。だが、あの言葉だけが頭から離れない。
――思い出したときに始まる。
意味なんて分からない。それでも不思議と忘れられなかった。
翌朝。
空は曇っていた。隼人は通学路を歩きながら空を見上げる。昨夜の夢はほとんど思い出せない。
街並みも。声も。誰かの姿も。霧の向こうへ消えてしまった。それなのに。ひとつだけ残っている。
胸の奥に引っ掛かった小さな棘のように。
――思い出したときに始まる。
「……なんなんだよ、それ」
苦笑しながら呟く。風が吹く。返事はない。ただ曇り空だけが静かに流れていた。




