#079 「再び白い世界へ」
白い光が、ゆっくりと薄れていく。はるなは目を開いた。白。どこまでも続く、白い世界。
上も、下も、遠くも、近くも。境界が分からない。けれど、はるなは、もうこの場所を知っていた。
「……来た」
隣から声がする。
「うん」
想太もいる。二人は顔を見合わせた。前と同じだった。身体がある。声も出る。想太も見える。
それなのに、自分たちが何の上に立っているのかは分からない。不思議な場所。初めて来た時には、それだけで怖かった。でも今は。
「なんか」
はるなが辺りを見回す。
「前と全然違うね」
「何が?」
「怖くない」
想太も周囲を見る。
「確かに」
「同じ場所なのにね」
「一回来てるからじゃないか?」
「それもあるけど」
はるなは白い世界の先を見る。
「ともりがいるって知ってるから」
想太が少し笑った。
「そうだな」
二人は歩き始めた。どこへ向かえばいいのかは分からない。それでも、不思議と迷っている感じはしなかった。
一歩、また一歩。二人の足音は聞こえない。風もない。匂いもない。ただ白い世界だけが続いている。
「ねえ、想太」
「ん?」
「ともり、どこにいるんだろ」
「前は向こうから来たよな」
「呼んだら来るかな?」
「呼んでみれば?」
はるなは立ち止まった。少しだけ息を吸う。
「ともりー!」
声が白い世界へ広がっていく。返事はない。
「……いない」
「そんなすぐ来ないだろ」
「じゃあ、もう一回」
「待てって」
「ともりー!」
想太が苦笑する。
「はるな」
「なに?」
「ここがどういう場所なのか分からないんだから、あんまり大声出すなよ」
「でも聞こえなかったら困るじゃん」
「聞こえてますよ」
「ほら――」
はるなの動きが止まった。想太も振り返る。二人の少し後ろ。
そこに、長い黒髪、純白の巫女装束、穏やかな微笑み。
ともりが立っていた。
「……ともり」
「はい」
はるなの顔が、一気に明るくなった。
「いた!」
「いました」
「いつから?」
「二度目に呼ばれる少し前から」
「じゃあ最初から返事してよ!」
「はるなが何をするのか、少し見ていたくなりました」
「もう!」
ともりが笑った。想太も笑っている。
「想太も笑わないでよ」
「いや、これは無理だろ」
「ひどい!」
白い世界に、三人の笑い声が響いた。前に来た時とは違う。あの時は、分からないことばかりだった。目の前にいる存在が誰なのか。この場所が何なのか。自分たちの世界が何なのか。何を聞けばいいのかさえ分からなかった。
けれど今は。はるなは、ともりを見ていた。ただ、それだけで嬉しかった。
「……会えた」
はるなが小さく言った。ともりの表情が、少しだけ変わる。
「はい」
「また会えた」
「はい」
はるなは笑った。
「会いたかった」
ともりは、すぐには答えなかった。ただ、はるなを見つめていた。そして。
「私もです」
静かに答えた。はるなの目が少し大きくなる。隣で想太が微笑んでいた。
「想太さんも」
「はい?」
「また来てくださって、ありがとうございます」
「俺も会いたかったから」
「ありがとうございます」
三人はしばらく、その場に立っていた。何かを聞くためでもなく。何かを説明するためでもなく。ただ再会したことを確かめるように。
「それで」
ともりが言った。
「今日は、どうされたのですか?」
「え?」
はるなが目を瞬く。
「どうされたって……」
「何か、聞きたいことがあったのでは?」
「うーん」
はるなは想太を見る。想太も少し困った顔をした。
「あるには、あるんだけど」
「はい」
「いっぱいありすぎて」
「はい」
「何から聞けばいいのか分かんない」
ともりが微笑む。
「前回と同じですね」
「そうだっけ?」
「はい」
「……成長してない?」
「その判断は、はるなさんにお任せします」
「ともり、ちょっと意地悪になってない?」
「そうでしょうか」
「なってる」
想太が笑う。
「仲良くなったってことじゃないか?」
「そうなの?」
「そういうことにしておけば?」
「想太まで!」
また笑い声。やがて、想太がともりを見る。
「俺たち」
「はい」
「戻ってから、いろいろ考えました」
ともりは黙って聞いている。
「久遠野のことも」
「はい」
「自分たちのことも」
「はい」
「正直、まだ全部受け入れられたのかは分かりません」
「それでいいと思います」
ともりはすぐに答えた。
「え?」
「すべてをすぐに受け入れる必要はありません」
二人はともりを見る。
「皆さんにとって、あの世界は生まれ育った世界です」
ともりの声は穏やかだった。
「一つの事実を知ったからといって、それまで過ごしてきた時間の意味が変わるわけではありません」
はるなは、昨日見た久遠野の町を思い出した。学校、友達、商店、走っていた子どもたち、夕暮れ。
「うん」
はるなが頷いた。
「私も、そう思った」
「そうですか」
「世界が何なのかって、もちろん気になるけど」
はるなは少し笑う。
「それより、普通に学校行って、美弥たちと馬鹿なこと言ってる方が大事かなって」
「美弥さんが聞いたら怒りそうですね」
「そこ?」
「大切な点かと」
「やっぱり意地悪になってる!」
想太が吹き出した。
「だから笑わないでって!」
三人は、また笑った。白い世界。世界の境界。そんな場所にいるとは思えないほど、普通の会話だった。
しばらくして。はるなが、ともりの隣に座った。正確には、座ったつもりだった。床があるのかどうかも分からない、けれど座れる。想太も隣に座る。三人が並ぶ。
「変なところだね」
はるなが言う。
「はい」
「ともりは、ずっとここにいるの?」
ともりは少しだけ間を置いた。
「それには、正確にはお答えできません」
「また?」
「はい」
「秘密多いね」
「申し訳ありません」
「謝らなくていいよ」
はるなはすぐに言った。
「前にも言ったけど」
ともりを見る。
「話せないことがあるんでしょ?」
「はい」
「だったらいい」
ともりは、はるなを見つめた。
「怒らないのですか?」
「なんで?」
「知りたいとは思いませんか?」
「思うよ」
はるなは即答した。
「すっごく知りたい」
「では」
「でも」
はるなが遮る。
「ともりが話せないって言うなら、何か理由があるんでしょ?」
ともりは答えなかった。
「だったら、待つ」
「……そうですか」
「うん」
想太も頷いた。
「俺も同じです」
ともりは二人を見た。長い沈黙。
白い世界には、何の音もない。それでも三人の間にある沈黙は、不思議と重くなかった。やがて。
「お二人とも」
ともりが言った。
「はい」
「なに?」
「ありがとうございます」
はるなが首を傾げる。
「何のお礼?」
「待ってくださることへの、お礼です」
「変なの」
「そうでしょうか」
「だって」
はるなは笑った。
「私たちが勝手に待つだけだよ」
「それでもです」
「そっか」
「はい」
はるなは、それ以上聞かなかった。
どれくらい時間が経ったのか。ここでは分からない。数分なのか。数時間なのか。それとも、久遠野では、また一瞬なのか。
はるなは白い世界を見ながら、ふと思った。
「ねえ、ともり」
「はい」
「一つだけ聞いていい?」
「もちろんです」
「私たちって」
ともりを見る。
「これから、どうなるの?」
想太がはるなを見る。ともりの表情から、笑みが消えたわけではない。けれど、少しだけ空気が変わった。
「どうなる、とは?」
「うまく言えないけど」
はるなは言葉を探す。
「私たちの未来」
「……」
「久遠野がどうなるとか」
少し間を置く。
「私たちが、これから何をするのかとか」
ともりは黙っている。はるなは慌てて付け足した。
「あ、全部教えてって意味じゃないよ」
「はい」
「ただ」
はるなは少し笑った。
「私たち、知っちゃったから」
世界のことを。自分たちが暮らす場所のことを。
「知らなかった時と、まったく同じではいられない気がして」
想太も頷いた。
「俺も、それは思っています」
二人の視線が、ともりへ向く。
「だから」
想太が聞いた。
「俺たちが、これから知っていくことについて」
少しだけ言葉を選ぶ。
「何か、教えてもらえることはありますか?」
ともりは二人を見つめていた。長い沈黙だった。先ほどまでとは違う。二人にも、それが分かった。
「ともり?」
はるなが呼ぶ。
「はい」
返事はいつも通りだった。けれど、ともりは、すぐには続きを言わなかった。やがて。
「はるなさん」
「はい」
「想太さん」
「はい」
ともりは静かに二人を見つめる。
「お二人に、お伝えしなければならないことがあります」
はるなと想太は黙った。ともりは続けようとして――ほんの一瞬、言葉を止めた。
それはまるで、どこまで伝えるべきなのかを考えているようだった。
白い世界に、静寂が戻る。はるなは待った。想太も待った。そして、ともりは二人を見つめたまま。ゆっくりと口を開いた。




