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#076 「静かな日常」

 朝の教室には、いつもと変わらない声があふれていた。ここは特別教室ではない、いつもの教室。誰かが昨日見たテレビの話をしている。誰かが提出期限を忘れた課題を、慌てて机の上に広げている。廊下からは、走るなと注意する教師の声と、それに続く笑い声。窓の外には、久遠野の町。見慣れた建物。見慣れた道路。遠くには山々が連なり、その上には青い空が広がっている。何も変わっていない。少なくとも、見た目には。


「はるな」

「ん?」

 呼ばれて、はるなは振り返った。想太が、自分の席からこちらを見ている。

「また見てた」

「何を?」

「外」

「外くらい見るでしょ」

「まあ、見るけど」

 想太は少し笑った。はるなも笑い返す。それだけだった。以前なら、本当にそれだけだった。けれど今は違う。

 窓の向こうに広がる町を見ながら、はるなは知っている。この世界が、何なのかを。

 この空も、この町も、この学校も、そして、自分たちも。それでも――。


「はるなー!」

「うわっ!」

 突然、後ろから肩を叩かれた。振り返ると、美弥が立っていた。

「なに黄昏れてんの?」

「黄昏れてない!」

「いや、完全に黄昏れてた」


「朝から黄昏れないでよ」

 いちかまで笑いながらやってくる。


「だから黄昏れてないって!」


「じゃあ何してたんだ?」

 今度は隼人。その後ろから要もやってきた。


「外見てただけ」

「それを黄昏れてるって言うんじゃないのか?」

「要まで!」


 いつもの六人だった。はるなが騒いで、美弥がからかって、いちかが笑う。隼人が余計な一言を足して、要が妙に冷静に追い打ちをかける。そして想太は、それを少し離れたところから笑って見ている。

 何も変わっていない。本当に、何も。

 ――でも、六人は知っている。

 ここにいる六人だけが、知っている。旧図書館の地下。レゾネーター。その先にあった、白い世界。そして、そこで待っていた女性。

 長い黒髪、純白の巫女装束。自分たちが知るAIともりとは違う。けれど確かに、ともりと呼ばれる存在。あの日から、六人の世界は変わった。

 いや、世界は変わっていない。変わったのは、自分たちの見方なのだ。


「ねえ」

 美弥が小さな声で言った。さっきまでとは違う声だった。六人だけに届く程度の声。

「最近さ」

 少しだけ間を置く。

「みんな、外見るようになってない?」


「……お姉ちゃんも?」

 いちかが聞いた。

「うん」


「俺もだ」

 隼人が答える。


「僕も」

 要も続いた。


 想太が苦笑する。

「やっぱりみんな同じなんだな」

 六人の視線が、自然と窓の外へ向いた。久遠野。自分たちが生まれ、育ってきた町。

 正確には――そんな言葉が、はるなの頭をよぎる。けれど、すぐに追い出した。


「やめよう」

 はるなが言った。

「何を?」

「考えるの」

 美弥が吹き出した。

「雑!」

「だって!」

 はるなは頬を膨らませる。

「考えたってしょうがないじゃん」

 誰も何も言わなかった。はるなは続けた。

「今日、授業あるし」

「当たり前だ」

「お昼になったらお腹すくし」

「それも当たり前」

「帰ったら眠くなるし」

「はるなはいつもだろ」

「想太!」

 また笑い声が起きる。その笑いが収まったあと、はるなはもう一度、窓の外を見た。

「だから、それでいいんじゃない?」

 今度は誰も笑わなかった。


「……うん」

 いちかが小さく頷く。


「私も、そう思う」

 美弥も頷いた。


「世界が何だろうと、今日がなくなるわけじゃないもんね」


「腹も減るしな」

 隼人が言う。


「兄貴はそればっかりだな」

 要が呆れる。

「重要だろ」

「否定はしない」

 また笑った。想太が、はるなを見る。はるなも想太を見る。二人とも、何も言わなかった。それで十分だった。


 昼休み。六人はいつもの場所で昼食を取っていた。


「そういえばさ」

 美弥が箸を止める。


「蒼羽ちゃんと真凜ちゃん、最近ちょっと変じゃない?」

 六人の動きが、一瞬だけ止まった。


「……どの辺が?」

 想太が聞く。


「私たちを見る目」

「あー」

 いちかが納得したように声を上げた。

「分かる。何か聞きたそうだよね」

 六人が顔を見合わせる。理由は、なんとなく分かっていた。


「やっぱり、気づいてるよね……」

 はるなが小さく言った。


「たぶんな」

 想太が答える。


「まあ、あの二人だし」

 美弥が苦笑する。

「何も気づかない方がおかしいか」


「だよね」

 いちかも頷いた。六人の間に、短い沈黙が落ちる。けれど、それ以上は誰も言わなかった。

 蒼羽と真凜が何を感じているのか。何を聞きたいと思っているのか。今はまだ、分からない。


「ともりは?」

 隼人が聞く。

「聞かれたらどうするんだろうな」


「話さないと思う」

 想太が答えた。

「あの時、お願いしたから」

 六人以外には共有しないでほしい。あの願いを、AIともりは受け入れた。


「でも、蒼羽ちゃんたちなら聞くよね」

 美弥が苦笑する。


「絶対聞く」

 いちかも笑った。


「真凜ちゃん、ああ見えて結構まっすぐ聞くからな」

「蒼羽ちゃんもね」

「……ともり、大変だな」

 隼人の一言に、六人が笑った。


 その時だった。

『聞こえていますよ』


「うわっ!」

 隼人が声を上げる。


『皆さんの会話は、通常通り観測しています』


「そうだった!」

 美弥が額に手を当てる。


『忘れないでください』


「いや、分かってるんだけどさ……」

 隼人が頭をかく。

「つい普通に話してると忘れるんだよ」


『それは良いことだと思います』

「え?」

『皆さんが、これまでと同じように日常を過ごせているということですから』

 六人が静かになった。AIともりの声は、いつもと変わらない。

 穏やかで、冷静で。そして、どこか優しい。


 はるなは少し笑った。

「ともり」

『はい』

「ありがとう」

 短い沈黙。

『どういたしまして』

 それだけだった。でも、それでよかった。


 放課後。はるなと想太は並んで歩いていた。

 夕方の久遠野、商店から聞こえる声、家路を急ぐ学生、買い物袋を提げた人、走っていく子どもたち。

 どれも、以前と同じ景色だった。


「想太」

「ん?」

「私さ」

「うん」

「やっぱり、この町好きだな」

 想太は少しだけ驚いた顔をした。

「急だな」

「いいじゃん」

「いいけど」

 はるなは歩きながら空を見上げた。

「偽物とか、本物とか」

 少しだけ言葉を探す。

「そういうの、もういいかなって」

 想太は何も言わない。

「だってさ」

 はるなは前を向いた。

「あの子たち、笑ってたじゃん」

 少し前を走っていく子どもたち。

「あのおばちゃんも買い物してるし」

 商店から出てきた女性が、知り合いらしい人と立ち話を始める。

「学校行けば美弥がうるさいし」

「本人の前で言うなよ」

「隼人は馬鹿なこと言うし」

「それも本人の前で言うな」

「いちかは笑ってるし、要は冷静な顔して変なこと言うし」

「それは……まあ」

「想太もいるし」

 想太が黙った。はるなは少しだけ笑う。

「だったら、もういい」

「……そっか」

「うん」

 二人はそのまま歩いた。しばらくして、想太が口を開く。

「でも」

「ん?」

「気にならないわけじゃないだろ?」

 はるなの足が、ほんの少しだけ遅くなった。

「……うん」

 嘘はつけなかった。白い世界。ともり。三人の約束。そして、まだ聞いていないこと、まだ知らないこと。


「もう一度、会いたい?」

 想太が聞いた。はるなはすぐには答えなかった。夕暮れの空を見る。そして。


「会いたい」

 小さく答えた。

「私も、もう一度ともりに会いたい」


「俺も」

 二人は顔を見合わせた。まだ、何かを知りたいからなのか。それとも、ただ会いたいだけなのか、自分たちにも分からなかった。

 ただ――。白い世界に残してきた、あの微笑みが。二人の心から消えることはなかった。


 夜。久遠野の町に灯りがともる。

 家々の窓、道路を走る車、店の看板、いつもの夜だった。

 世界の正体を知っても、空が消えることはなかった。町が消えることもなかった。誰かの笑顔が偽物になることもなかった。

 今日が終われば、明日が来る。明日になれば、また学校へ行く。

 六人は笑う。悩む。喧嘩をするかもしれない。

 そして、また笑う。それでいい。今は、それでいい。

 ただ一つ。はるなと想太の中には、小さな思いが芽生えていた。

 もう一度、あの場所へ。

 もう一度、ともりに会いたい。

 静かな日常の中で、その思いだけが、二人の胸に静かに残っていた。

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