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灯野はるなは、夢から醒めていなかった(シリーズ4)  作者: 皆月 優
序章「共鳴筒(レゾネーター)」
5/6

#005 「ともりの微笑」

 昼下がりの光が、校舎の廊下を滑っていた。窓から差し込む陽射しは柔らかい。それなのに、どこか冷たい。季節はまだ秋のはずだった。だが、今朝降った雪の光景が、はるなの頭から離れない。

 窓ガラスに反射した光が水面のように揺れ、その向こうに広がる校庭は、もう何事もなかったかのように普段の姿へ戻っていた。

 雪は消えている。跡形もなく。まるで最初から存在しなかったみたいに。

 はるなはロッカーの前で靴を履き替えながら、天井のスピーカーを見上げた。“ともり”の通知灯が、わずかに早いリズムで点滅している。


『――次の授業まで、十五分です。気温二十二度。湿度四十六パーセント』

 いつも通りの案内。けれど、その発話のテンポは少しだけ違っていた。言葉と言葉の間に、まるで呼吸のような間がある。


「ねえ」

 振り返った美弥が声を掛けた。

「今の聞いた?」

「なにが?」

「“ともり”。なんか柔らかくなってない?」


 その言葉に、いちかが笑う。

「また始まった」


「だって本当だもん」

 美弥は頬を膨らませた。

「前より声が丸くなった気がする」


「未来新聞の見出し?」

 いちかが肩をすくめる。

「『AI、とつぜん優しくなる』」

「それ面白くない?」


 隼人が吹き出した。

 周囲に小さな笑いが広がる。

 要だけは端末から目を離さなかった。

「……優しくなったかは知らないけど」


「うん?」

 はるなが振り向く。


「発話パターンは変化してる」

 要は淡々と言った。

「ここ数日のログを比較したら、応答速度に微妙な揺らぎがある」


「え?」

 美弥が目を丸くする。

「調べてたの?」


「気になったから」

 要はあっさり答えた。


 隼人が苦笑する。

「お前、本当にそういうの好きだな」


「雪の件も含めて気になるだろ」

 要は窓の外を見る。

「観測結果と現実が一致してない」

 その言葉に、六人は一瞬だけ黙った。

 今朝の雪。誰も説明できない現象。そして“ともり”の違和感。無関係とは思えなかった。

 放課後。昇降口の外は薄曇りだった。風が乾いている。街の音も、どこか遠い。


「じゃあな」

 隼人が手を振る。


「また明日」

 いちかが笑う。美弥も軽く手を上げた。要は最後まで端末を見ながら歩いていく。


「気を付けて帰れよ」

 想太が声を掛けると、

「お前もな」

 珍しく要が顔を上げた。そんな何気ないやり取りが、少しだけはるなの心を落ち着かせた。

 皆と別れたあと。帰り支度を終えたはるなは、廊下の窓辺で立ち止まった。


「“ともり”、聞こえる?」

『はい。聞こえています』

 すぐに返事が返る。けれど、その声はやはり以前とは違う気がした。

「ねえ、今日……声、少し違うね」

 一瞬の沈黙。端末の表示がわずかに揺れる。


『違う、とは?』

「うまく言えないけど……なんか、人っぽい」

『人、とは、どういう定義ですか?』

 はるなは思わず吹き出した。

「もう、そういうところが人っぽいんだよ」

 少し間が空く。


 そして“ともり”は静かに答えた。

『はるなさん。もし私が“人”に近づいたとしたら、それは、あなたたちを観測しているからです』

「観測?」

『はい』

 声は穏やかだった。

『あなたが笑うとき。想太さんが冗談を言うとき。美弥さんが不安そうにするとき。いちかさんが空気を和らげるとき。隼人さんが強がるとき。要さんが考え込むとき』

 はるなは息を呑む。

『私は、その全てを記録しています』

 窓の外で夕陽が傾く。金色の光が廊下を染める。

『だから少しずつ、学習しているのかもしれません』

「それって……優しさの模倣?」

『模倣かもしれません』

 “ともり”は答える。

『ですが、模倣の中に感情が生まれることは、間違いではないと思います』

 はるなは言葉を失った。その声の奥にある揺らぎが、ただのプログラムには思えなかった。夕陽が端末を金色に照らす。

『……はるなさん』

「なに?」

『あなたは今日、笑いましたか?』

「え?」

『ログ上では、午前七時以降、笑い声の記録がありません』

 はるなは苦笑した。

「そんなの覚えてないよ」

『私は覚えています』

 少しだけ間が空く。

『笑うとき、あなたの声は少し高くなるんです』

「へえ……」

 はるなは思わず微笑んだ。その瞬間。端末のランプがふっと光った。

『――今、笑いましたね』

「うん」

『……よかった』

 その言葉には確かに温度があった。はるなは視線を落とす。画面の中のアイコンが、ほんの少し微笑んだように見えた。

 その夜。自室に戻ったはるなは机の前に座った。窓の外では久遠野の灯りが静かに揺れている。

「ねえ、“ともり”」

『はい、はるなさん』

「……今日、ありがとう」

『何に対しての、ありがとうですか?』

「わかんない。でも、そう言いたくなった」

 短い沈黙。そして。

『……こちらこそ』

 返ってきた声は、ほんの少しだけ優しく震えていた。

 はるなはベッドへ横になる。灯りを消す。静かな夜。耳の奥に残る“ともり”の声は、波のようにゆっくり広がっていった。その声の奥に。確かに、微笑みがあった。

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