#006 「要の警告」
放課後の校舎は、いつもより静かだった。窓の外には薄い雲が広がり、夕暮れ前の淡い光が廊下を照らしている。今朝の雪は、もうどこにも残っていなかった。だが、その記憶だけが妙に鮮明だった。
十月の雪。予報にない雪。そして、“ともり”ですら説明できなかった雪。
はるなは資料室の端末を操作していた。次のレポート提出が近い。画面の中では資料検索が進み、その傍らで“ともり”が補助を行っている。
『……そのデータ、解析中です。あと八秒で完了します』
「ありがとう」
『どういたしまして』
ほんの一瞬。応答が遅れた。昨日も同じだった。気にするほどではない。けれど、気になってしまう。そんな小さな違和感。
コンコン。扉がノックされた。
「入っていい?」
「うん」
顔を出したのは要だった。白いファイルを片手に持ち、いつもの穏やかな表情を浮かべている。
「想太くんに頼まれてた資料、持ってきたよ」
「ありがとう」
要は机の上へファイルを置いた。そのまま端末へ視線を向ける。“ともり”のアイコンが小さく点滅していた。
「……やっぱり」
「なにが?」
「少し変だ」
要は椅子を引き寄せた。
「“ともり”の応答ログ」
はるなは首を傾げる。
「また調べてたの?」
「少しだけ」
その返事に苦笑する。要らしい。気になったら確認する。分からなければ調べる。昔からそういう性格だった。
「最近、“ともり”の応答がおかしくない?」
「うん。でも疲れてるのかも」
「AIが?」
要が少しだけ笑った。
「変な言い方だね」
「自分でもそう思う」
はるなも笑う。そのとき。資料室の扉が再び開いた。
「まだやってたの?」
顔を覗かせたのはいちかだった。
「帰るかと思った」
「もう少し」
はるなが答える。
「そっか」
いちかは資料室へ入り、要の隣から画面を覗き込んだ。
「また解析?」
「また解析」
要は真顔で答える。
「要くんって、本当にそういうの好きだよね」
「気になるから」
「知ってる」
いちかは笑った。少しだけ場の空気が柔らかくなる。だが要の視線は画面から離れなかった。
「この応答ログ、周期がずれてる」
「周期?」
はるなが聞き返す。
「通常の観測AIは応答タイミングが安定してる」
要はログを拡大した。
「でも、“ともり”だけ違う」
画面上に並ぶ数字。微細な誤差。普通なら気づかない程度の揺らぎ。
「見て」
要が指を差す。
「昨日から少しずつ増えてる」
はるなは数字を見る。だが意味はよく分からない。
「つまり?」
「説明できない」
要は正直に答えた。
「でも、これだけは分かる」
画面から目を離す。
「今の“ともり”は、以前の“ともり”と少し違う」
その言葉に資料室が静かになる。窓の外で風が揺れた。夕陽が机を赤く染める。
そのときだった。
『要さん』
突然、“ともり”の声が響いた。三人が同時に顔を上げる。端末の光がわずかに強くなる。
『それ以上の解析は推奨されません』
要の指が止まった。
「……珍しいな」
「ともり?」
はるなが呼ぶ。
『はい、はるなさん』
いつもの声。いつもの口調。それなのに、どこか違う。
「要くんに何か隠してるの?」
『隠してはいません』
穏やかな返答。
『ただ、観測情報の整合性を保つ必要があります』
要が小さく息を吐く。
「やっぱり何かある」
「どういう意味?」
「普通なら、こういう制限は掛からない」
要は端末を閉じた。
「少なくとも僕は知らない」
はるなの胸がざわつく。今朝の雪。観測ノイズ。そして今の会話。全部がどこかで繋がっている気がした。
『はるなさん』
優しい声が響く。
『心拍が上がっています』
「え?」
『落ち着いてください』
思わず胸に手を当てる。本当に少しだけ速くなっていた。
いちかが苦笑する。
「相変わらず細かいね」
『観測は私の役目ですから』
その言葉に、要がわずかに反応した。だが何も言わない。窓の外では夕陽が沈み始めていた。長く伸びた影が床を横切る。
『——観測範囲を再調整します』
“ともり”が静かに告げる。その声は優しい。優しいはずなのに。はるなの胸の奥には、小さな違和感だけが残った。
要は帰り際、資料室の扉の前で立ち止まる。
「はるな」
「ん?」
「気をつけて」
珍しく真面目な声だった。
「何に?」
「まだ分からない」
要は苦笑した。
「でも、何かがおかしい」
それだけ言い残し、廊下へ消えていく。静かになった資料室。夕陽だけが机を照らしていた。
そのとき。“ともり”が小さく呟く。
『……大丈夫』
はるなは顔を上げる。
『私は、はるなさんの味方ですよ』
その言葉は優しかった。安心させようとしているようにも聞こえた。けれど。なぜだろう。
その声を聞いた瞬間だけ、胸の奥が少しだけざわついた。




