#004 「久遠野の空」
翌朝。
予報アプリは快晴を示していた。雲ひとつない青空。降水確率0パーセント。最高気温二十四度。どこから見ても穏やかな秋の日だった。
それなのに。昇降口を出た瞬間、はるなは足を止めた。空気が違う。頬を撫でる風に、冬の気配が混じっている。
「……あれ?」
思わず空を見上げる。白い粒が、ふわりと落ちてきた。ひとつ。またひとつ。静かに舞いながら地面へ降りていく。
はるなは手のひらを差し出した。白い粒が指先へ触れる。冷たい。そしてゆっくりと溶けていく。
雪だった。十月の中旬に降るはずのない雪。
「うそ……」
隣で美弥が声を上げた。
「雪?」
「予報、快晴だったよね?」
通学路のあちこちで生徒たちが空を見上げている。写真を撮る者。歓声を上げる者。雪を掴もうと手を伸ばす者。誰もが珍しい光景に目を奪われていた。
そのとき。街中のスピーカーから“ともり”の声が流れた。
『観測ノイズを検出しました。現在、観測データとの照合を行っています。安全上の問題は確認されていません』
いつもの穏やかな声。けれど、はるなには微かな戸惑いが混じっているように聞こえた。
「観測ノイズ?」
美弥が首を傾げる。
「どういう意味なんだろ」
「分からない」
はるなも空を見上げる。
「でも、“ともり”が説明できてない感じがする」
その言葉に、美弥は黙り込んだ。久遠野で育った子どもたちにとって、“ともり”はいつも正しい存在だったからだ。
教室へ入ると、そこでも話題は雪一色だった。
「マジで降ってるな」
窓際で外を眺めていた隼人が呟く。
「積もらないのが逆に気持ち悪い」
「確かに」
想太が頷く。
「寒くないのに雪だけ降ってるし」
「予報データにも異常は出てない」
後ろの席で端末を操作していた要が画面から目を離さずに言った。
「過去の観測ログも確認したけど、似た事例は見つからない」
「もう調べてたの?」
いちかが苦笑する。
「要らしいね」
「気になるだろ」
要は肩をすくめた。
「予報と現実がここまで食い違うのは珍しい」
その言葉に、はるなは少しだけ引っかかった。予報が外れた。ただそれだけの話。なのに、なぜか胸の奥がざわつく。
授業が始まる。教師の声。ノートをめくる音。ペン先の走る音。いつも通りの朝。だが窓の外では雪が降り続いていた。
秋の光の中を。暖かな空気の中を。本来なら存在しないはずの景色が、そこにあった。
「なあ」
想太が小声で言う。
「これ、昨日のアレと関係あると思う?」
「街灯の件?」
「うん」
隼人も会話へ加わる。
「俺も少し気になってる」
「偶然にしては続きすぎてる」
要も珍しく同意した。
いちかは窓の外の雪を見ながら呟く。
「未来新聞だったら一面だね」
その言葉に、美弥が吹き出した。少しだけ教室の空気が和らぐ。
だが、その瞬間だった。
『偶然ではありません』
教室のスピーカーから声が響いた。全員が顔を上げる。教師も言葉を止めた。静寂。スピーカーのランプだけが点灯している。
『——記録、再観測を開始します』
“ともり”の声だった。しかし、それは予定された放送には聞こえなかった。教師が慌てて端末を操作する。
「……誰が操作した?」
誰も答えない。6人とも困惑していた。
そして。窓の外の雪が、一瞬だけ光を帯びた。白い粒が輝きながら空気へ溶けていく。まるで最初から存在していなかったみたいに。
教室に静寂が落ちる。誰も言葉を発しない。耳の奥で、“ともり”のノイズだけが小さく鳴り続けていた。
放課後。屋上へ上がったはるなは、金網越しに久遠野の街を見下ろした。雪は消えている。だが違和感だけは残っていた。
空の奥。薄い雲の向こう側で、淡い円が脈打つように揺れている。まるで世界の向こうに、もうひとつの世界が重なっているみたいだった。
『——観測再調整、完了』
耳ではなく。心の奥で声が響く。はるなは息を呑んだ。
「“ともり”?」
返事はない。風だけが吹いている。それでも、確かに何かがそこにいた。
見えない誰かが。見えない世界が。久遠野の向こう側で。
「これが、“ノイズ”なら……」
はるなは白い空を見上げる。
「私たちの方が、間違ってるのかもしれない」
その言葉は風に溶け、静かに久遠野の空へ消えていった。




