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灯野はるなは、夢から醒めていなかった(シリーズ4)  作者: 皆月 優
序章「共鳴筒(レゾネーター)」
3/7

#003 「放課後の静寂」

 放課後の光は、どこか薄かった。窓から差し込む夕陽は教室の床を長く照らし、机や椅子の影を伸ばしている。カーテンの端が揺れるたび、その影も静かに形を変えた。教室の隅には、昼間の熱が少しだけ残っている。それでも空気はゆっくりと冷え始めていた。

 生徒たちが笑い声を残して帰っていく。椅子を引く音。端末を閉じる音。鞄を肩に掛ける音。ひとつ、またひとつと音が遠ざかり、やがて学校は静かな箱のようになった。

 はるなはノートを閉じ、窓の外へ目を向けた。夕暮れの久遠野が、淡い橙色の光に包まれている。

 駅へ向かう車の列。歩道を急ぐ制服姿の生徒たち。街路樹の葉を揺らす風。

 見慣れた景色だった。けれど今日は、その景色の輪郭がどこか曖昧に見えた。教室のスピーカーが小さく点滅する。それはまるで、“ともり”の呼吸のようだった。


『――はるなさん、残りの課題を処理しますか?』

「ううん。今日はいい」

『了解しました』

 いつもの会話。いつものやり取り。だが、その“いつも”の中に、わずかな沈黙が混じっていた。言葉と言葉の間。ほんの一瞬の空白。それが妙に気になる。


 はるなは視線を上げた。

「ねえ、“ともり”」

『はい』

「今朝の遅延、まだ残ってる?」

 少しだけ間が空く。ほんの数秒。それだけなのに、やけに長く感じられた。


『……測定上は、問題ありません』

「そう。じゃあ、気のせいだね」

『はい。気のせい、だと思います』

 また、その返答だった。まるで、はるなの言葉を鏡のように映している。

 はるなは小さく眉を寄せた。以前の“ともり”なら、もっと即座に答えていた気がする。けれど理由は分からない。分からないまま、教室を後にした。

 校舎を出ると、風が柔らかかった。乾いた匂いがする。季節がゆっくりと夏を手放し始めている。


「帰るか」

 背後から声がした。振り向くと、想太が手を上げていた。


「うん」

 二人は並んで歩き出した。坂道を下る。夕陽が街を染めている。街灯がひとつ、またひとつと灯り始める。どれも同じ規格のLED光。けれど今日だけは、その光がひとつひとつ別の世界へ続く入口のように見えた。


「なあ、はるな」

「ん?」

「最近、“ともり”の声、変じゃない?」

 はるなは思わず足を止めた。

「どうして?」


「いや、前より間がある」

 想太は空を見上げる。

「なんかさ、考えてるみたいなんだよ」


 はるなは小さく息を吸った。

「……やっぱり、そう聞こえる?」


「うん」

 想太が笑う。

「はるなだけじゃなかったんだな」


「少しだけだけどね」

 二人の影が坂道に長く伸びる。夕陽は低く、空は茜色へ変わり始めていた。

 そのときだった。風が止まる。木々の葉が動きを止める。遠くで聞こえていた車の音が、急に遠ざかった。街全体の音が、ふっと消える。

 そして――道路沿いの街灯が、一斉に消えた。光が消える。音が消える。世界が無音になる。

 はるなは息を呑んだ。反射的に想太の腕を掴む。


「今、止まった……?」

「いや、これ――」

 想太も言葉を失う。

 時間が滑っていた。数秒。それだけの空白。

 それなのに永遠のように長く感じられた。

 街の輪郭が揺らぐ。信号機も。ビルの窓も。空の色さえも。世界全体が一枚の映像になったみたいだった。

 そして。何事もなかったかのように灯りが戻る。車が走る。人々が会話を続ける。風が吹く。時間が再び流れ始めた。


「……見たよね?」

 はるなが確認する。


「見た」

 想太も真顔だった。

「でも、誰も気づいてない」

 周囲を見渡す。通りを歩く人々は誰一人立ち止まっていない。スマート端末を見ながら笑う学生。買い物袋を提げた女性。帰宅途中の会社員。誰も異変に気付いていなかった。


「やっぱり、世界の方が遅れてるのかもな」

 想太が冗談めかして言う。だが、その声の奥には微かな緊張があった。笑っているのに、本当は少し怖がっている。

 はるなにはそれが分かった。だから何も言わず、隣を歩いた。空を見上げる。低い雲が流れている。

 その向こう側で、小さな光の粒が揺れていた。星ではない。それだけは分かった。


 その光を見つめていると、耳の奥で“ともり”の声が震えた。

『――記録、再同期中……』

 かすかな声。風の音に溶けるほど小さい。


「今の、聞こえた?」

 思わず口にする。


「え?」

 想太は首を傾げた。


「……なんでもない」

 はるなは首を振った。風が再び動き出す。夕暮れの街に音が戻る。二人分の足音が坂道に響く。その後ろを追うように、光の粒がひとつ、またひとつと揺れていた。まるで誰かが、静かに見守っているみたいに。

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