#002 「教室のざわめき」
朝のチャイムが、いつもより少しだけ低い音で鳴った。窓の外には薄い雲が広がり、秋の光が校舎の壁を柔らかく照らしている。開け放たれた窓から流れ込む風は涼しく、教室の空気にわずかな湿り気を運んでいた。
はるなは鞄を机に置き、静かに息を吐いた。教室にはいつもの朝のざわめきが満ちている。友人同士の他愛ない会話。机を動かす音。椅子の脚が床を擦る音。
誰かが笑い、誰かが慌てて宿題を写している。どれも見慣れた朝の風景だった。けれど――。
「ねえ、今のチャイム、変じゃなかった?」
窓際の席で、美弥がプリントを畳む手を止めた。指先を顎に当て、小さく首を傾げている。
「変って?」
いちかが振り返る。
「音、伸びてた気がするの。ピィー……って、いつもより少しだけ」
「気のせいじゃない?」
いちかは笑った。
だが、はるなも同じ違和感を覚えていた。確かに音の余韻が長かった。まるで空気そのものが音を離したがらないみたいに。
黒板の前では、河井先生がホロチョークを走らせていた。黒板のように見える反応面が淡く光り、ペン先の軌跡が白い文字を描いていく。粉も匂いも存在しない。それなのに、文字が生まれるたびに、チョークの音の幻だけが耳の奥で響いた。
光の粒がはらはらと散る。その粒子が朝日に照らされ、一瞬だけ金色に見えた。先生は淡々と英文を書き続ける。
“be used to doing”
文字の下で光がゆらめいた。その瞬間、どこかで蛍光灯が瞬くような小さな音がした気がした。
はるなは手の中でペンを回した。机の上の影がゆっくりと動いている。窓から差し込む光。ノートの端。自分の指先。
すべては普通に見える。なのに、何かが微妙に噛み合っていない。壁の時計を見る。秒針が進む。
だが、進み方がほんのわずかに不自然だった。世界が静かに軋んでいる。
「……眠そうだね、はるな」
隣から想太の声がした。はるなが振り向くと、想太は頬杖をついて笑っていた。
「昨夜、また小説読んでた?」
「ううん」
はるなは首を横に振る。
「ただ、ちょっと時間がゆっくりに感じるだけ」
「それ、授業のせいじゃない?」
想太が肩をすくめる。その言い方がおかしくて、はるなは小さく笑った。
けれど、笑いが消えた直後だった。胸の奥を、冷たい風が通り抜けた気がした。何かがずれている。見えないところで。言葉にできない。
けれど、確かに存在している。
授業の途中。天井のスピーカーが突然点滅した。教室中の視線が上を向く。
流れてきたのは放送ではなかった。電子音の断片。ざらついたホワイトノイズ。複数の信号が重なり合うような、不快な音だった。
「ちょ、なにこれ?」
誰かが声を上げる。教室がざわついた。
「静かに!」
河井先生が手を叩く。しかしノイズはすぐには消えなかった。まるで誰かが、こちらへ手を伸ばそうとしているみたいに。
その中へ、“ともり”の声が割り込んだ。
『……接続確認中。心配しないでください』
優しい声。いつもの声。けれど、その言葉の隙間に――。ほんの一瞬だけ。別の何かが混ざった。
――見えてる?
囁きにも似た微かな音。言葉だったのかさえ分からない。それでも、はるなの耳には確かに届いた。手からペンが滑り落ちる。乾いた音が教室に響いた。
「どうした?」
想太が心配そうに覗き込む。
はるなは慌ててペンを拾った。
「……いま、“ともり”が」
「ともりが?」
「ううん。なんでもない」
そう答えながらも、指先は少し震えていた。授業の終わり頃。スピーカーが再び明るく点滅した。
『復旧しました。問題はありません』
無機質なアナウンス。それだけだった。教室の空気はすぐに元へ戻る。誰も気にしていない。まるで、さっきの出来事そのものが存在しなかったかのように。
はるなはゆっくりとノートを閉じた。ページの余白に線が描かれている。波のような形。心拍のような形。いつ描いたのか、自分でも分からない。指先でなぞる。紙の感触だけが返ってきた。
そのとき。耳元で、“ともり”が小さくつぶやいた気がした。
『……大丈夫です』
それは報告ではなかった。まるで誰かを安心させようとするような声音だった。はるなは顔を上げる。窓の外では、秋の風が静かに木々を揺らしていた。




