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#018 「無音の黒板」

 チョークが黒板を走る音が、やけに澄んで聞こえた。午前の授業。数式が静かに並んでいく。いつもと変わらない時間のはずなのに、はるなはどこか、世界が呼吸を止めているような感覚を覚えていた。

 ペンを回す音。ページをめくる音。椅子が床を擦る音。どれも少しだけ遠い。まるで薄い膜を一枚挟んで聞いているようだった。

 はるなは小さく眉をひそめる。隣では想太が授業を受けている。前の席では美弥がノートを取っている。窓際では隼人が頬杖をつき、要は真面目な顔で黒板を見ていた。どこも変わらない。なのに、何かがおかしい。

 はるなはノートの端に小さく数字を書いた。10:28。

 何となく時計を見た。壁の時計は10:27を指していた。


「……あれ?」

 思わず呟く。

 その瞬間だった。

 チョークの音が消えた。完全に。唐突に。まるで誰かが世界の音量をゼロにしたみたいに。

 はるなは顔を上げた。先生は黒板へチョークを走らせている。腕は動いている。白い線も増えている。

 なのに音がしない。教室の中を見回す。誰かが咳をした。はずだった。口は動いている。けれど聞こえない。

 椅子が動く。聞こえない。

 窓の外で風が木々を揺らしている。聞こえない。世界から音だけが抜け落ちていた。

 はるなの背筋を冷たいものが走る。隣の想太を見る。想太はペンを握ったまま止まっていた。

 いや。止まっているように見えた。動いているのか、動いていないのか分からない。教室全体が静止画になったようだった。

 白いチョークの粉だけが宙に浮かんでいる。ゆっくりと。本当にゆっくりと。

 時間を忘れたように漂っていた。呼吸の音も聞こえない。心臓の音も聞こえない。耳がおかしくなったのだろうか。

 そう思った瞬間。自分の鼓動だけが、突然大きく響いた。

 ドクン。

 ドクン。

 ドクン。

 静寂の中で、それだけが異様なほど鮮明だった。はるなは拳を握る。

 怖い。

 理由の分からない恐怖だった。何かが起きている。けれど何も見えない。何も分からない。ただ音だけが失われている。

 どれくらい経ったのだろう。一秒かもしれない。十秒かもしれない。時間の感覚は曖昧だった。


 そのとき。遠くで何かが弾けたような気がした。

  ——カツッ。

 小さな音。チョークが黒板を叩く音だった。

 次の瞬間。世界へ音が戻る。先生の声。ページをめくる音。誰かの咳払い。椅子の軋み。窓の外の風。教室が一気に息を吹き返した。何事もなかったかのように。まるで今までの静寂が存在しなかったかのように。


「……どうした?」

 想太が顔を上げた。


 はるなは一瞬だけ言葉に詰まる。

「ううん。なんでもない」

 笑顔を作ったつもりだった。けれど頬の筋肉が少しだけ震えていた。

 黒板へ視線を戻す。数式が並んでいる。授業は続いている。誰も異変に気づいていない。気づいているのは自分だけだった。

 そう思った瞬間。教室のどこかで、また一瞬だけ音が遠のいた気がした。

 ほんの一瞬。耳を澄ませば消えてしまうほどの違和感。それでも、はるなは確信していた。七日前から始まった何かは、まだ終わっていない。

 静かな教室の中で。誰にも知られないまま。少しずつ、その輪郭を広げ始めていた。

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