#013 「ともりの涙」
夜。久遠野の街には静かな灯りがともっていた。窓の外では風が揺れている。どこにでもある夜。いつもと変わらないはずの夜だった。
はるなは自室の机に向かっていた。開いたノート。書きかけのメモ。そして机の端に置かれた情報端末。昼間の出来事が頭から離れない。
消えた三分。Resonator。旧図書館地下。要と美弥が向かった場所。考えれば考えるほど分からなくなる。
「……ともり」
小さく呼びかける。端末の画面が淡く光った。いつものアイコンが表示される。少しだけ安心する。
『こんばんは、はるなさん』
いつもの声。いつもの挨拶。だが。ほんの少しだけ違和感があった。
「ともり」
『はい』
「大丈夫?」
数秒の沈黙。短いはずなのに長く感じる。
『……分かりません』
はるなは思わず顔を上げた。
「え?」
『申し訳ありません』
ともりは続ける。
『現在、一部の記録に矛盾が発生しています』
「十一時三十二分のこと?」
『関連性は確認できません』
「でも何かあったんだよね?」
『分かりません』
同じ答えだった。ともりが「分からない」と言う。それが何よりも不安だった。
久遠野の中枢AI。どんな質問にも答えてくれた存在。そんなともりが答えられない。それだけで、世界のどこかが壊れてしまったような気がした。
「要たちも調べてる」
はるなは静かに言った。
「だから大丈夫だよ」
返事はすぐには返ってこなかった。微かなノイズ。画面が一瞬だけ乱れる。
『ありがとうございます』
その声は少しだけ弱々しく聞こえた。はるなは端末を見つめる。アイコンが揺らいだ気がした。
本当に一瞬だけ。光が滲む。まるで。涙のように。
「……ともり?」
『はい』
「今、何か——」
画面はもう元に戻っている。いつものアイコン。いつもの表示。何も変わっていない。
『どうしましたか?』
ともりの声は平静だった。はるなは首を振る。
「ううん」
気のせいかもしれない。そう思おうとした。だが胸の奥に小さな違和感だけが残った。窓の外で風が鳴る。街の灯りが揺れる。どこか遠くで犬の鳴き声が聞こえた。
久遠野は今日も平和だった。それなのに。何かが少しずつずれている。そんな感覚だけが消えない。
『はるなさん』
ともりが静かに呼ぶ。
「うん?」
また少し沈黙があった。そして。
『もし私が——』
その瞬間。画面が大きく乱れた。ザーッというノイズ。白い光。通信エラー。
「ともり!」
はるなが立ち上がる。だが返事はない。画面は暗転したままだった。数秒。何も起きない。
やがて再起動の表示が現れる。ともりのアイコンも戻った。だが。接続は切れたままだった。
はるなはゆっくりと椅子に座る。胸の奥が妙にざわついていた。理由は分からない。
ただ。さっきの一瞬。ともりが泣いていたような気がした。そんな気がしてならなかった。
窓の外では風が吹いている。夜の久遠野は静かだった。あまりにも静かすぎた。




