第2話:パワーアップ
視界の端で『ログアウト』の文字が静かに明滅しているのを無視し、浩之は低い姿勢のまま木立の影へと滑り込んだ。
カサリ、と足元の枯れ枝を踏む音がやけに大きく響く気がして、心臓が跳ねる。
だが、それ以上に浩之の注意を奪ったのは、少し離れた開けた平原で繰り広げられている光景だった。
草むらの隙間から目を凝らす。
そこにいたのは、二人の男だった。
一人は動きやすい深紅の胴着に厚手のブーツを合わせた大柄な男。
もう一人は、深緑のフード付きマントに身を包んだ、寡黙そうな細身の相棒だった。
二人とも、現実の人間とは思えないほどキビキビとした身のこなしで、跳び上がりながら跳ね回る棘だらけの甲虫のようなモンスターを次々と蹴散らし、叩き伏せていた。
ゲームの画面の向こうで見ていた「あのヒーローたち」が、今、目の前で生身の暴力と肉弾戦を展開している。
歩を進めるうち、浩之は足元の風景に強烈なデジャブを覚えた。
緩やかな上り坂、一定の間隔で並ぶ苔むした水晶の柱、そして妙に規則正しい足場の高さ。
TGの画面で何十回、何百回とコントローラーの方向パッドをガチャガチャ言わせて攻略した、あのステージの構造そのものだ。
(だったら、あの場所には……!)
浩之は周囲に敵がいないことを確認し、何の変哲もない、ただの青空が広がる空間へと歩み寄った。
上空には何も見えない。
だが、ゲームの記憶と、この世界の奇妙なシステムが直感的に告げている。
――ここだ。
浩之は跳び上がり、頭上に漂っていた透き通ったルーン石に触れた。
コツン、と鈍い硬質な音が響く。
次の瞬間、空気がパチンと弾けたように、石の内部に閉じ込められていた光がほどけ、ポコンと音を立てて小さな緑色の小瓶が飛び出した。ころころと跳ねながら、それは足元へ転がってくる。
「本当に……出やがった」
絶句しながらも、浩之は足元に転がった小瓶を拾い上げた。
ゲームの中であれば、画面上のアイテムと同じくらいのサイズ感に見えていたが、現実のスケールで実体化したそれは、片手で掴むにはちょうどいい、緑色の液体が揺れる小さなガラス瓶だった。
毒薬だったらどうしようという一抹の不安はあったが、ここまで来て尻込みする気はない。
浩之は蓋をひねって外し、その緑色の液体を一気に呷った。
ごくりと喉を鳴らして飲み下す。
薬草を煮詰めたような、独特の青臭い味がした。
しかし、飲み込んでも特段の変化は起きない。
――[システムメッセージ:残機が1増加しました]
「うーん、体に特に変化はないな」
首を傾げながらさらに先へ進む。
少し歩いたところに、また一つルーン石が浮かんでいた。指先が触れた途端、今度は鮮やかな赤色の小瓶が転がり出てくる。
「これなら確か……」
浩之は息を呑み、迷うことなくその赤い液体を一気に飲み干した。
喉の奥を灼熱がすり抜けていく感覚があった。
その瞬間だった。
「――っ!」
胃の腑のあたりから、マグマのような熱量が爆発的に逆流してきた。
全身の血管が沸騰し、骨格のきしむ音が頭蓋骨のすぐ内側で響き渡る。
「うぉぉぉ……!」
喉の奥から絞り出すような声が漏れる。
ゲームの画面上ではこれでキャラクターの姿がひと回り逞しく変化する演出だったが、生身の肉体はそのままのサイズを維持していた。
ただ、全身の細胞が狂ったように再構築され、内側から凄まじい熱量が叩きつけられる。
先ほどまでアラフォーの体に重くのしかかっていた疲労感や気だるさが、すっきりと霧散していた。
全身に底知れないパワーがみなぎっている。
両手を握りしめる。
パンパンに張った筋肉と、圧倒的な身体能力の向上。
これなら、さっき見たモンスター程度なら、素手でも殴り飛ばせる自信があった。
(いける……これなら戦える!)
浩之は高鳴る鼓動を抑え込み、さらに前方を見据えた。
あの赤いドリンクで肉体は強化された。
だが、この世界で無駄なく立ち回るためには、もう一つ手数が要る。
あの紅蓮の実さえ手に入れば――。
進んでいくと、前方の草むらからガサリと音がした。
頭に兜のような硬質な殻をかぶった、木の実型のモンスターが、ぽこぽこと間抜けな足音を立てながらこちらに向かって歩いてくる。
現実のスケールで見ると、人間の膝丈ほどもある不気味な生体の実だ。
心臓がドクリと跳ねる。
だが、赤いドリンクを飲んで底知れないパワーがみなぎった今の体なら、逃げる必要はない。
いや、ここで避けて通れば、いつまでもこの理不尽なゲーム世界を攻略することはできない。
「……やるしかないか」
浩之は息を殺し、モンスターが間合いに入るのを待った。
トコトコと目の前を通り過ぎようとした瞬間、浩之は踏み込み、その巨体にめがけて思い切り跳躍した。
ゲームの仕様通りの軌道。
バキッ、と乾いた嫌な音が響いた。
「ぐっ……!」
上から押し潰すように踏みつけた瞬間、木の実型モンスターの柔らかい頭部がペチャンコに潰れ、その身体はまるで空気が抜けた風船のようにみるみる萎んで消えていく。
残されたのは、地面に落ちた小さなコインのような光の欠片だけだった。
浩之は着地した姿勢のまま、自分の靴底を見つめて呆然と呟いた。
「……本当に、ゲーム通り踏みつけたら倒せるな」
リアルの生物を相手にしている感覚でいえば、こんな物理法則は滅茶苦茶だ。
硬い甲羅や牙があるわけでもないのに、上から踏みつけるだけで相手が消滅するなんてありえない。
だが、この世界が「あのTG」のゲームをベースに構築されている以上、その理不尽なルールこそが絶対の正義なのだろう。
「設定のおかげだな……」
ふう、と息をつきながら額の汗を拭う。
これがもし、剣や魔法が飛び交う本格的なファンタジーRPGだったら、そうは行かなかったはずだ。
レベルの概念、武器の耐久値、複雑な属性相性や熟練度。
そんな面倒なステータス管理に追われ、一介の冴えない中年サラリーマンだった自分がモンスターに勝てる見込みなど微塵もなかっただろう。
だが、これはアクションゲームだ。
ジャンプして踏みつける。ドリンクを飲めばパワーアップする。やるべきことはシンプルで、ルールさえ分かれば誰にでも攻略の糸口が見える。
「……よし」
恐怖が少しずつ、ゲームを攻略する興奮と冷徹な計算へと変わっていく。
浩之は消え去ったモンスターの跡地に目を向け、さらに奥へと足を踏み出した。
しばらく進んだ先で、周囲の空気の質が変わった。
わずかに熱を帯びた風。その先に、これまでとは色の違う、内側で赤い光がくすぶるルーン石が一つだけ浮かんでいる。
「……あったな」
浩之は迷わず踏み込み、頭上へ手を伸ばした。
弾けた光の中から現れたのは、揺らめく真紅の炎をそのまま形にしたような、一粒の果実だった。
「これだ……!」
浩之は手を伸ばし、その『紅蓮の実』をそっと手の平で包み込んだ。
熱を帯びた果実がふわりと光の粒子に変わり、まるで吸い込まれるように彼の腕の皮膚へと溶けていく。
「……こうだな」
全身の血が沸騰するような灼熱のエネルギーが、今度は自然なかたちで体内の血管を駆け巡った。
肺の奥が熱くなり、指先のすべてに熱い閃光が宿るのがわかる。
その時、前方から再び数体の木の実型モンスターが群れをなして這い寄ってきた。
逃げ場はない。浩之は歯をくいしばり、滾る熱を手の平へと集中させた。
「ぐっ……おおおっ!」
力任せに前方を睨みつけ、ありったけの声で叫ぶ。
「――火球!!」
右手を振り下ろした瞬間、指先からバスケットボール大の禍々しい赤い火の玉が放たれた。
それは凄まじい熱量を纏いながら地面に叩きつけられ、バウンドしながら跳ね回る。
ボァッ! と音を立てて爆発が起き、直撃を受けた木の実型モンスターたちはたまらず黒煙に包まれ、跡形もなく消え去っていった。
「すげえ……本当に撃てやがった……!」
荒い息を吐きながら、浩之は自分の両手を見つめて歪んだ笑みを浮かべた。
理不尽な現実の歯車をぶち壊すための武器は、確実に揃いつつあった。
火の玉の余韻が冷めやらぬ中、さらに奥へ進む道中、浩之は次々と隠されたルーン石を見つけ出し、パワーアップドリンクの小瓶を回収していった。
光の粒子となって身体に溶け込む最初の一本で基礎的な肉体強化は果たしたが、それ以降に見つけた小瓶は飲むわけにもいかず、栓を締め直したまま左右のポケットへと予備として丁寧に詰め込んでいく。
膨らんだポケットの重みが、いざという時の安心感をかたち作っていた。
どれくらい歩いただろうか。
視界が開けた平原の一角で、突然、凄まじい怒号と地鳴りのような足音が響き渡った。
「――なんだ?」
浩之は反射的に身を低くし、生い茂る巨大なシダ植物の陰へと身を滑り込ませた。
葉の隙間から目を凝らすと、そこには息を呑むような光景が広がっていた。
先ほど遠くで見かけた、あの深紅の胴着と深緑のマントの二人が、大量のモンスターの軍勢に完全に包囲されていたのだ。
兜をかぶった木の実型モンスターだけでなく、背中に無数の鋭い棘を生やした重厚な甲羅を背負うモンスター、さらには空中から爆弾を投下してくる飛行型のモンスターまで、おびただしい数の群れが二人に殺到している。
「うわっ、囲まれすぎだろ……!」
深紅の男がジャンプで敵を蹴散らし、深緑の男がそれを必死に援護しているが、いかんせん物量が違いすぎた。
一撃の重さはあるものの、次から次へとわき出てくる敵の波に、二人の動きにはっきりと疲弊の色が滲んでいる。
深紅の男の頭巾がずれ、深緑の男がバランスを崩して地面に膝をついた。
絶体絶命のピンチだった。
(助けに入るべきか……?)
脳裏にその選択肢がよぎったが、浩之はすぐに首を横に振った。
相手は何十、何百というモンスターの軍勢だ。
いくら自分がドリンクで強化され、火の玉を撃てるようになったとはいえ、真正面から突撃すればあっという間に数の暴力で押し潰されるのは目に見えている。
自分はまだ、この世界のルールを少し覚えただけの素人にすぎないのだ。
「……まずは様子見だ」
浩之は息を殺し、草むらに深く身を隠したまま、前方の戦況をじっと見つめ続けた。




