第19話:青い鳥と真っ直ぐな道
視界を埋め尽くしていたまばゆい光の粒子が、ゆっくりと網膜の裏へと溶けていく。
無機質で焦げた金属の匂いが充満していた機械都市の空気は完全に払拭され、代わりに鼻腔をくすぐったのは、湿った土と青々とした草木の匂いだった。
コツン、と革靴が硬い土を踏みしめる。
重力が正常に足元へと戻り、浩之はゆっくりと目を開けた。そこには、数日前にレイアを送り届けたのどかな田園風景――ココノ村の入り口が広がっていた。
「……戻ってきたな」
浩之は小さく息を吐き、首を軽く鳴らした。
彼自身の感覚ではつい先ほどまで、八体のボスが合体した規格外の要塞と死闘を繰り広げていた。限界までシステムを駆動させた激戦の疲労は、現実世界のアパートで一晩眠ったことである程度は抜けている。
現在の彼の肉体には『異世界僧侶』としての強烈な補正値が適用されているため、三十九歳という年齢特有の体の重さはなく、足取りは羽のように軽かった。
村の入り口から少し歩き、記憶にある素朴な木造の一軒家へと向かう。
その裏庭から、鋭い風切り音が断続的に聞こえてきた。
「ふっ……! はあっ……!」
生け垣の隙間から覗くと、そこには短い休暇を満喫しているはずのレイアの姿があった。
動きやすい麻の服に着替えた彼女は、額にびっしょりと汗を浮かべながら、真剣な眼差しで青銅の剣を振るっていた。ただ闇雲に振り回しているのではない。浩之が教えた通り、足幅を固定し、重心の移動を意識しながら仮想の敵を想定して刃の軌道を修正している。
「……くっ、まだ手首に力が入ってる……もう一回!」
少女の呟きを聞きながら、浩之は少し離れた場所で足を止め、静かにその様子を観察した。
王様から一人で魔王を倒せと放り出され、スライムの群れに囲まれて泣きじゃくっていた頃の面影は、その横顔からはすっかり消え失せている。自分の弱さを自覚し、それでも前に進むために地道な努力を重ねる姿は、間違いなく勇者としての資質を育てつつあった。
浩之は満足げに目を細めると、わざと足音を立てて裏庭へと足を踏み入れた。
「随分と数をこなしているようだが、少し力みすぎじゃないか? そんなに肩に力が入っていると、いざって時に足が動かなくなるぞ」
「えっ……!?」
唐突な声に驚き、レイアが弾かれたように振り返る。
そこに立つ浩之の姿を認めた瞬間、彼女の顔にパァッと満開のひまわりのような笑顔が咲いた。
「ヒロユキさんっ!」
レイアは青銅の剣を慌てて地面に置き、小走りで駆け寄ってくる。
「お帰りなさい! 用事、もう終わったんですか?」
「ああ、無事に片付いてな。ちょっとばかり派手な大立ち回りになっちまったが、収穫は十分だった」
「派手な立ち回り……? またどこかで、無茶な戦いをしてきたんじゃ……」
心配そうに見上げるレイアに、浩之は「気にするな」と軽く手を振った。
「それより、よく素振りを続けていたな。見ていたが、最初に出会った頃よりずっとサマになってきてるぞ」
「本当ですか!? えへへ……ヒロユキさんが戻ってきた時に、足手まといにならないようにって、毎日欠かさず振ってたんです!」
照れくさそうに笑うレイアの頭を、浩之は無造作にポンと撫でた。
「よし。汗を流して腹も減ってる頃だろ。中に入ろう。お母さんにも挨拶しておきたいし、いい土産を持ってきたんだ」
◇
「まあ……! これは、一体何という食べ物なんですか……?」
ココノ村の素朴な食卓の上で、レイアの母親は目を丸くして感嘆の声を漏らした。
彼女の視線の先にあるのは、浩之がインベントリ空間から取り出した純白の箱。そしてその中から現れた、色鮮やかなフルーツがふんだんに乗ったタルトと、きめ細かい生クリームで覆われたショートケーキだった。
現実世界のデパ地下で購入した、プロのパティシエによる洗練されたスイーツである。
インベントリの機能により時間は完全に停止していたため、生クリームは一切ダレておらず、フルーツの艶やかなナパージュも買った直後の輝きを放っていた。
「俺の故郷の菓子ですよ。数日間、水入らずのところをお邪魔したご挨拶と、またレイアを連れ出してしまうことへのお詫び代わりです。遠慮なく食べてください」
「こんなに美しくて、まるで宝石みたいな……本当に私たちがいただいてもよろしいのでしょうか」
「ええ、もちろん。レイアも、剣の素振りで使った体力をしっかり回復させておけ」
浩之に促され、レイアはおずおずとフォークを手に取り、ショートケーキの先端を小さく切り分けて口に運んだ。
「…………っ!!」
瞬間、レイアの肩がビクッと大きく跳ねた。
あまりの衝撃に目を真ん丸に見開き、咀嚼するのも忘れたように固まっている。
「ど、どうしたのレイア? 口に合わなかった?」
母親が心配そうに覗き込むが、レイアは首を激しく横に振り、感極まったような声を出した。
「お母さん……これ、すっごく美味しい……! 甘くて、ふわふわで、口の中ですぐに消えちゃうの……! こんな美味しいもの、王都のお店だって絶対にないよ!」
「まあ、そんなに……。私も一口……」
母親もフルーツタルトを口に運び、同じように目を見開いて言葉を失った。
この世界にも甘い焼き菓子などはあるだろうが、現代の洗練された製菓技術と徹底した温度管理で作られたフワフワのスイーツは、彼女たちにとって未知の食感と味わいだった。まさに魔法の食べ物といっても過言ではないだろう。
「うんうん、美味しいです! ヒロユキさんの故郷って、こんなすごいものを毎日食べてるんですか!?」
「まあ、毎日ってわけじゃないが、金さえ出せばいつでも買えるな。体を動かす前のエネルギー源にはうってつけだ」
浩之は温かい紅茶をすすりながら、ふと声色を和らげた。
「それに、俺がいない間も一人でサボらずに剣の素振りを続けていただろ。……よく頑張ったな。これは、その努力へのささやかなご褒美だ」
ピタリ、と。
フォークを動かしていたレイアの手が止まった。
浩之からのストレートな称賛の言葉に、驚いたように瞬きをした後、彼女の顔がみるみるうちに真っ赤に染まっていく。
「ご、ご褒美って……! そ、そんな、私はただ、ヒロユキさんの足手まといにならないようにって……」
嬉しさと気恥ずかしさで潤んだ瞳を伏せ、照れ隠しのようにモジモジと身をよじるレイア。温かい感動が胸を満たし、和やかな空気が食卓を包み込んだ。
――しかし、独身男性である浩之の言葉は、そこで終わらなかった。
「ああ。だが、いくらご褒美とはいえ、調子に乗って食い過ぎるなよ。砂糖の塊みたいなもんだからな、すぐに腹周りや太ももに余計な肉がつくぞ。お前も年頃なんだから、その辺の体型管理はきっちりやっておけよ」
ピシリ、と。
感動で温まっていた食卓の空気が、一瞬にして凍りついた。
フォークを咥えたままのレイアが、信じられないものを見るような目で浩之を凝視している。その横で、母親が「あ、あらあら……」と引き攣った愛想笑いを浮かべていた。
「……ヒロユキさん」
「ん? なんだ」
「そういうところ、本当にデリカシーがないっていうか……! せっかく感動してたのに、台無しですっ!」
顔を真っ赤にして抗議する少女に対し、浩之は「事実を言ったまでだが」と全く悪びれる様子もない。実用性と合理性を重んじるあまり、彼には女の子に対するデリカシーという概念が決定的に欠けているのだった。
◇
食後。母親が奥の部屋へ片付けに向かい、居間に浩之とレイアの二人だけが残された。
浩之はふと居住まいを正し、真剣な表情でレイアに向き直った。
「さて、腹も膨れたところで本題だ。レイア、これからの旅のために渡しておきたいものがある」
「渡したいもの、ですか?」
「ああ。この前の用事ってのは、これを用意しに行ってたんだ」
浩之はインベントリを操作し、手のひらの上に一つの小さな物体を出現させた。
それは、鮮やかな青色で塗装された、カクカクとしたデザインの小鳥のメカ――青いドットバードの小型試作機だった。
「わあ……! 可愛い……!」
レイアが目を輝かせて身を乗り出す。
浩之の手のひらで、青いドットバードは「ピピッ」と短い音を鳴らし、コテンと首を傾げた。その動作は機械的でありながら、どこか愛嬌がある。
「ヒロユキさん、この鳥さん……生きてるんですか? なんだか不思議な形をしてますけど……」
「生き物じゃない。魔道具の一種だと思ってくれればいい。俺の知り合いの、少しばかり変わり者の職人が特別に仕立ててくれた代物だ」
浩之は青いドットバードを指先で軽く小突いた。
「こいつには、上空からの『索敵』と、見た映像の『記録』、そしてそれを空中に映し出す機能が備わっている。これから先、未知のエリアへ進む時に、こいつが俺たちの目となって危険を先回りして探ってくれるはずだ」
「空から危険を……すごい! これがあれば、あの時みたいにいきなりスライムの群れに囲まれることもなくなりますね!」
「そういうことだ。お前へのプレゼントだ、大切に使ってやってくれ」
浩之が小鳥を差し出すと、青いドットバードはパタパタと短い羽を羽ばたかせ、ふわりとレイアの肩に着地した。
くすぐったそうに首をすくめたレイアは、頬を緩ませて小鳥の頭を指でそっと撫でた。
「ありがとう、ヒロユキさん。……えっと、名前をつけてあげなきゃ。可愛いから、『ピピ』ってどうかな?」
「ピピ……まあ、呼びやすくていいんじゃないか」
安直すぎるネーミングセンスに内心で小さくツッコミを入れつつも、浩之は大人の対応で静かに頷いた。
「それともう一つ。これからバレルという商業都市へ向けて出発するにあたって、俺たちの『方針』を変えようと思う」
「方針……戦い方のことですか?」
レイアが真剣な表情になり、姿勢を正す。
「ああ。これからの旅だが、本当ならなるべく危険を避けて、無駄な戦闘はやり過ごす最短ルートで進むつもりだった。だが、その方針は捨てる」
「えっ……? どうしてですか?」
浩之は少しだけ視線を落とし、厳しい表情を見せた。
「魔物をやり過ごしてコソコソ進めば、背後に脅威を残すことになる。もし逃がした連中が徒党を組んだり、前後から挟撃されたりすれば、逃げ場がなくなって一巻の終わりだからな」
(実際、ボスを無視して進んだ結果、八体のボスが一箇所に集結してしまったあの絶望的な状況があった。あれは、世界の仕様を舐めていた俺に対する、システム側からの強烈な意趣返しだ)
自分自身への戒めを内心に秘めながら、浩之はレイアを真っ直ぐに見据えた。
「それに、戦いを避けてばかりじゃお前の実戦経験も積めない。だからこれからは、街道を真っ直ぐ進み、立ち塞がる魔物は真正面から一つずつ確実に討ち倒していく」
「一つずつ……確実に……」
「面倒で遠回りかもしれない。だが、結果的にそれが一番安全に経験を積み、俺たち自身を強くすることに繋がる。……どうだ、不満か?」
浩之の問いかけに対し、レイアは少しだけ考える素振りを見せた後、パッと顔を上げて力強く首を横に振った。
「ううん、不満なんてありません! むしろ……なんだか、すごく勇者の冒険っぽくてワクワクします!」
「勇者っぽい、か。お前らしい感想だな」
「だって、隠れてコソコソ進むより、ちゃんと前を向いて困難を乗り越えていく方が、お母さんや村の人たちにも胸を張れますから。ヒロユキさんがそう言うなら、私、どこまでもついていきます!」
一点の曇りもない真っ直ぐな瞳。
そのひたむきさに、浩之は思わず苦笑を漏らし、短く息を吐いた。
「頼もしいことだ。なら、準備を済ませて出発しよう。目的地は、この先の街道を抜けた先にある商業都市バレルだ」
◇
母親に別れを告げ、ココノ村を出発した二人は、バレルへと続く深い森林地帯の街道を歩いていた。
以前のような張り詰めた緊張感はない。
二人の頭上を、鮮やかな青色をしたドットバードのピピが、一定の高度を保ちながら哨戒飛行を続けているからだ。
『ピピッ!』
突然、上空のピピが鋭い電子音を鳴らし、二人の目の前に急降下してきた。
そして、空中に青白い光の粒子を展開し、半透明の映像を投影する。
「おっ、何か見つけたか」
浩之が目を細める。
空中に浮かび上がった映像には、ここから数百メートル先の鬱蒼とした茂みの影に潜む、五体の人型モンスターの姿がはっきりと映し出されていた。
緑色の醜悪な肌に、腰布だけを巻きつけた小柄な魔物。手には粗末な棍棒や錆びた短剣を握りしめ、街道を通る獲物を待ち伏せしている。
「あれは……ゴブリンですね」
「ああ。ご丁寧にも、街道に細いツルを張って罠まで仕掛けてやがる。ただの獣と違って、知恵が回る連中だ」
浩之は投影された映像を冷静に分析した。
これこそが、この世界が生きている証拠だ。魔物たちもただ漫然と徘徊しているわけではなく、群れを作り、罠を張り、獲物を確実に仕留めるための戦術を持っている。
「レイア、あの位置なら奇襲を仕掛けられる。先制攻撃はお前に任せるぞ。いけるか?」
「はいっ! やってみせます!」
レイアは青銅の剣を抜き、確認したゴブリンの潜伏地点へ向けて、音を立てずに素早く忍び寄っていく。
木陰に身を隠し、茂みの中で待ち伏せに集中しているゴブリンたちの背後を取った。
彼女は小さく深呼吸をし、胸の奥にある魔力の熱を手のひらへと集束させる。
以前のように力むことはない。水門を開くように、自然に、かつ強力に。
「いっけぇぇぇーーっ!! 《ピュアフレア》っ!!」
シュパァァァンッ!!
レイアの放った扇状の光の刃が、茂みを一気に薙ぎ払う。
不意を突かれたゴブリンの群れは回避する間もなく、先頭にいた二体が光の刃をまともに受けて絶叫を上げ、光の粒子となって消滅した。
「ギギャァァッ!?」
「グガガッ!」
残された三体のゴブリンがパニックに陥り、陣形を完全に崩して右往左往する。
その混乱の隙を、浩之が見逃すはずもなかった。
「――崩れたな」
ヒュンッ!
浩之は持ち前の超加速を発動させ、瞬きする間にゴブリンの懐へと滑り込んだ。
魔法も武器も使わない。己の規格外の身体能力を、ただ最短距離で相手に叩き込むだけの冷徹な作業だ。
ドガッ!!
浩之の放った重い前蹴りが、振り向こうとした三体目のゴブリンの腹部を情け容赦なく撃ち抜く。
くの字に折れ曲がったゴブリンは、数十メートル後方の巨木に激突して爆散。
「ギ、ギギッ……!」
残る二体が恐怖に顔を引き攣らせ、錆びた短剣をデタラメに振り回すが、浩之はその軌道を完全に見切り、最小限の動きで回避する。
すれ違いざまに首筋へ手刀を一閃。
さらにもう一体の脳天へ、無造作に拳を振り下ろした。
ボガァァンッ!
くぐもった破裂音が二度連続して響き、残る二体もあっけなく光の粒子へと還っていった。
「……掃討完了だ。レイア、魔力の消費具合はどうだ?」
浩之が息一つ乱さずに振り返ると、レイアは剣を鞘に収めながら、自分の胸に手を当てて確認した。
「大丈夫です! 無駄撃ちせずに済みましたし、消費は最小限に抑えられています!」
「上出来だ。ピピの索敵と、お前の先制魔法。この連携があれば、大抵の野戦は安全に処理できるな」
ピピが「ピピッ」と得意げに鳴きながら、レイアの肩へと舞い戻る。
奇襲を未然に防ぎ、逆に相手の弱点を突いて確実に各個撃破する。効率と安全を両立させた、まさに浩之の求める「腰を据えた攻略」の理想的な形だった。
◇
その後も、二人はピピの索敵を頼りに、街道に出没する魔物たちを危なげなく討伐しながら歩みを進めた。
浩之の指示のもと、レイアも実戦の中で剣の立ち回りと魔法の使いどころを確実に自分のものにしつつある。
やがて、深く生い茂っていた木々が徐々にまばらになり、視界が開けてきた。
森を抜けた二人の目の前に広がっていたのは、なだらかな平原と、その奥にそびえ立つ巨大な石造りの城壁だった。
高くそびえる防壁の向こう側には、赤茶色の屋根が連なる無数の建造物が見え、風に乗って多くの人々の活気ある喧騒が微かに聞こえてくる。
王都に次ぐ規模を誇る交易の要衝、商業都市バレルだ。
「見えましたね、ヒロユキさん! あそこがバレルです!」
「ああ。ここから先は、より強力な装備や情報が手に入るはずだ。気を引き締めていくぞ」
浩之は小さく頷き、巨大な城壁を見据えた。




