第八話 「屋上の会話(二)」
十一月の下旬になると、病棟の暖房が本格的に動き始めた。
廊下を歩いていると、外から入ってくる冷気と、暖房の温かさが、場所によって混ざり合っている。
窓の近くは冷えていて、廊下の中央は温かい。
その境目を歩くたびに、早苗は季節が本格的に変わったことを感じた。
屋上に出るには、上着が要る。
そういう時期になっていた。
亮平から「また屋上に行きたい」と言われたのは、十一月の第三週の木曜日だった。
前に交わした約束——面談を改めて設ける、という話——は、その後、宙に浮いたままになっていた。
早苗が日程を調整しようとするたびに、何かが邪魔をした。
他の患者の急変、浅野との会議、自分自身の逡巡。
最後の理由が一番大きかった、と早苗は思っていた。
亮平のほうから「屋上で」と言ってきたことで、早苗は逃げ場を失った。
「わかりました」と早苗は言った。
「今日の午後にしましょう」
「めぐみさんは呼ばなくていい」と亮平は言った。
早苗は少し止まった。
「移動の介助が必要です」
「行くまでは頼む。屋上では二人でいたい」
亮平の目は、穏やかだった。
懇願ではなく、確認だった。
早苗は「わかりました」と言った。
午後の三時に、めぐみが亮平を車椅子に乗せて、エレベーターまで連れてきた。
「先生、よろしくお願いします」とめぐみは言った。
その目が、少し何かを言いたそうだったが、何も言わなかった。
早苗が車椅子を押して、屋上に上がった。
ドアを開けると、冷気が一気に入ってきた。
十一月の終わりの外気は、肌を刺すような冷たさだった。
早苗はコートを着ていた。
亮平は病院の厚手のブランケットを二枚、膝と肩に掛けていた。
屋上に出た。
空は曇っていた。
低い雲が、灰色に広がっている。
前回来たときの、高く澄んだ秋の空とは違う。
冬の手前の、重い空だった。
遠くのビルの輪郭が、霞んで見える。
風はなかった。その分、静かだった。
早苗はフェンスの近くまで車椅子を押して、止めた。
亮平は正面を見ていた。
二人とも、しばらく何も言わなかった。
前回もそうだった。
この屋上では、沈黙が自然に来る。
二人の間の空気が、急かさない。
早苗はその静けさの中に、少し、安堵を感じた。
何も言わなくていい時間が、少しだけ、楽だった。
「前に言ったことを」と亮平が言った。
「まだ考えてるか」
風がなかったので、声がまっすぐ届いた。
早苗は少しの間、黙った。
「考えてる」と言った。
それだけだった。
でも、その言葉が出るまでに、時間がかかった。
前は「聞こえなかったふりをする」と言った。
今日は「考えてる」と言った。
たった一言だったが、それは、正面から応じた最初の言葉だった。
亮平もそれをわかっているはずだった。
亮平は少しの間、何も言わなかった。
早苗の言葉を、受け取っていた。
「わがままだと思ってる」と亮平は言った。
「俺のわがままだと思ってる。それはわかってる」
「わがままという言葉は、違う気がします」と早苗は言った。
「そうか」
「あなたは自分の死に方を、自分で決めたいと思っている。それはわがままじゃない」
「でも、君に頼んでいる」
「そこが問題です」と早苗は言った。
声は静かだった。
責めているのではなかった。
ただ、事実を言葉にした。
「私に頼むことが、あなたにとっても、私にとっても、何を意味するか」
亮平は頷いた。
「わかってる。それでも、君しかいない」
早苗は正面を向いたまま、亮平の横顔を、視界の端で見ていた。
「なぜ私なの」
自分でも、その問いが出るとは思っていなかった。
「なぜ私に頼むのか」ではなく、「なぜ私なの」と言った。
その言い方が、医師の言葉ではなかった。
亮平はすぐには答えなかった。
曇り空を見ていた。
低い雲が、ゆっくりと流れていた。
「君は」と亮平は言った。
「俺が一番みっともなかった時を知ってる」
早苗は黙って聞いていた。
「あの頃の俺、覚えてるか。付き合い始めて最初の年」
覚えていた。
亮平が三十歳になる手前の年だった。
撮りたい映画があるのに資金が集まらなくて、いくつかの仕事で企画を蹴られ続けていた時期だった。
早苗の前でだけ、弱音を吐いた。
泣いたこともあった。
翌朝には何事もなかったように笑っていたが、夜は何度も崩れた。
「覚えてます」と早苗は言った。
「あの時の俺を知ってる人間に、最期を見届けてほしい」と亮平は言った。
「取り繕わなくていい人間に。俺のみっともない部分を知ってて、それでも隣にいてくれた人間に」
早苗は返せなかった。
言葉が、喉の手前で止まった。
医師の言葉を探した。
適切な返答を探した。
「それは過去のことです」でも、「私はあなたの担当医です」でもない、もっと別の何かを探して、見つからなかった。
「俺も、君に頼むことが何を意味するか、わかってる」と亮平は続けた。
「君の仕事を危険にさらすことになるかもしれない。君の医師としてのキャリアに、傷をつけるかもしれない。それはわかってる」
「わかってて、頼むんですか」
「わかってて、頼んでる」亮平は少し間を置いた。
「だから、断ってくれていい。断ってほしいと、半分は思ってる」
「半分は」
「もう半分は、わかってもらいたい」
早苗は目を伏せた。
頭の中で、二つのものが引き裂かれていく感覚があった。
医師としての自分と、早苗としての自分。
その二つは、これまでも常に同じ場所にあった。
医師である早苗と、女である早苗は、切り離せないはずだった。
それが今、この屋上で、別々の方向に引っ張られていた。
医師としての自分は、答えを知っている。
できない。
してはいけない。
法律があり、倫理があり、自分が医師である限り、それを越えることはできない。
早苗としての自分は、亮平の声を聞いていた。
一番みっともなかった時を知っている人間に見届けてほしい、という言葉を、受け取っていた。
二つが同時に、胸の中にあった。
どちらかが正しくて、どちらかが間違っているのではなかった。
両方が本物だった。
その両方を抱えたまま、答えを出せないでいた。
「答えは」と早苗は言った。
「今は出せません」
「うん」
「でも、聞こえなかったふりは、もうしません」
亮平はそれを聞いて、少しの間、何も言わなかった。
曇り空を見ていた。
「ありがとう」と言った。
その「ありがとう」が何に対するものなのか、早苗にはわかった。
答えを出してくれたことへの感謝ではなかった。
向き合ってくれた、ということへの感謝だった。
逃げなかった、ということへの。
早苗は何も言えなかった。
二人の間に、静けさが戻った。
遠くのビルの輪郭が、曇り空の中に霞んでいる。
どこかで烏が鳴いた。
その声が、遠く、一度だけ聞こえて、消えた。
どのくらい経ったか、屋上のドアが開く音がした。
「先生、津田さん」とめぐみの声がした。
「寒くなりましたよ」
いつもの、明るい声だった。
早苗は顔を上げた。
亮平も正面から目を外した。
二人の間にあった空気が、めぐみの声でそっと、区切られた。
「そうですね」と早苗は言った。
「戻りましょう」
めぐみが車椅子の後ろに回った。
早苗はその横に立った。
「寒かったですか、津田さん」とめぐみが言いながら車椅子を押し始めた。
「平気だった」と亮平は言った。
「いい空気だった」
「そうですか。でも今夜から更に冷えるって言ってましたよ、天気予報」
「そうか」
他愛のない会話が、屋上に流れた。
早苗はその横を歩きながら、先ほどまでの言葉の残滓を、静かに、胸の中に収めた。
屋上のドアを抜けるとき、早苗は振り返らなかった。
前回は振り返った。
今日は振り返らなかった。
その違いが何を意味するのか、自分でもよくわからなかった。
ただ、今日のことは、もう少し時間をかけて、一人で受け取らなければならないと思った。
エレベーターの扉が開いた。
三人で乗り込んだ。
扉が閉まった。
病棟に向かって、降りていった。
その夜、早苗は自宅のソファに座って、亮平の言葉を、もう一度、一つひとつ取り出した。
俺が一番みっともなかった時を知ってる。
その人間に見届けてほしい。
見届けてほしい、と言った。
終わらせてほしい、とだけ言ったのではなかった。
最期を、見届けてほしい。
その言葉の中には、死をもたらすこと以上の何かがあった。
ただそこにいてほしい、という意味が、含まれていた。
早苗は目を閉じた。
亮平の三十歳手前の顔を、思い出した。
泣いていた顔。
翌朝、何事もなかったように笑っていた顔。
その二つが、今の亮平の顔と重なって、重なりきらなかった。
十二年という時間が、そこにあった。
断ってくれていい。
断ってほしいと、半分は思ってる。
その言葉が、意外なほど、胸に刺さっていた。
亮平が自分を気遣っていた。
そのことが、頭でわかるより先に、何か柔らかいところに届いていた。
早苗は長い間、ソファに座っていた。
答えは、まだ出なかった。
でも今日、一つだけ変わったことがあった。
「聞こえなかったふりはしない」と言った。
それは、向き合う、ということだった。
向き合うことと、答えを出すことは、違う。
でも、向き合わなければ、答えには近づけない。
今夜はそこまで、だった。
ベランダの植物に水をやった。
冷えた夜の空気が、ベランダに充満していた。
植物の葉が、少し縮んで見えた。
早苗は水をやりながら、空を見上げた。
雲が低く、星は見えなかった。
部屋に戻って、明かりを消した。




