第九話 「夜の病室で」
十二月に入った最初の週、病棟の廊下に夜間暖房が入った。
それでも、夜の廊下は冷える。
昼間は暖房と人の熱気で保たれている温度が、消灯後に少しずつ落ちていく。
深夜になると、廊下の端の窓ガラスが結露して、外の闇が滲んで見える。
早苗は当直のたびに、その結露した窓を、何となく確認する癖があった。
外の温度と中の温度の差が、ガラスの曇り具合でわかる。
今夜は、よく曇っていた。
呼び出しが来たのは、午前二時を過ぎた頃だった。
当直室で仮眠を取っていた早苗は、ナースコールの音で目が覚めた。
覚めた、というより、意識が浮上した。
緊急の呼び出しのときは、眠りから覚める感覚が違う。
身体が先に動く。
めぐみからの内線だった。
「津田さんの状態が変わりました。呼吸が乱れています」
「今行きます」
白衣を羽織って廊下に出た。
深夜の廊下は静かだった。
自分の足音だけが聞こえた。
消灯された病棟の中を、早苗は早足で進んだ。
亮平の病室のドアを開けると、めぐみが亮平の横に立っていた。
亮平は上半身をわずかに起こした状態で、呼吸が浅く、速かった。
顔色が悪い。
酸素飽和度のモニターの数値が、低下していた。
「いつから」と早苗は言いながら、亮平の側に立った。
「三十分前から呼吸が変わって、十分前から急に下がりました」
早苗はモニターを確認した。
聴診器を当てた。
肺の音を聞いた。
左の下葉に、異常な音がある。
誤嚥性肺炎の可能性が高かった。
「酸素を上げます。吸引の準備を」
「はい」
めぐみが動いた。
早苗は亮平の顔を見た。
亮平は目を開けていた。
苦しそうだった。
でも、パニックにはなっていなかった。
早苗を見ていた。
「苦しいですか」と早苗は言った。
亮平は頷いた。
言葉が出なかった。
「処置します。少し楽になります」
亮平はまた頷いた。
早苗は動き始めた。
酸素マスクを装着する。
気道の確認。
吸引。
薬剤の選択。
一つひとつの動作が、身体に染みついた手順で進んだ。
考えるより先に手が動く。
これが緊急処置の体の使い方だった。
十五年かけて覚えた、身体の記憶だった。
ただ、処置をしながら、早苗は自分の手が、かすかに震えているのに気づいた。
気づいて、気づかないようにした。
震えるな、と思うのではなく、ただ、次の動作に集中した。
薬剤の量を確認する。
投与する。
モニターの数値を見る。
呼吸音を確認する。
十分ほどで、数値が落ち着いてきた。
呼吸が、少しずつ整ってきた。
亮平の顔色が、わずかに戻った。
「落ち着いてきました」とめぐみが言った。声に、安堵が混じっていた。
「もう少し見ます」と早苗は言った。
「数値が安定するまで」
一時間ほどして、亮平の状態は安定した。
酸素飽和度は正常範囲に戻った。
呼吸も落ち着いた。
誤嚥性肺炎の疑いは残るが、今夜の急変はひとまず乗り越えた。
抗生剤の投与を開始して、明朝の状態を確認する必要がある。
早苗はめぐみに指示を出して、記録を取った。
「ありがとうございました」とめぐみは言った。
「私、他の患者さんの確認をしてきます」
「お願いします」
めぐみが病室を出た。
病室に、早苗と亮平の二人だけが残った。
深夜の病室は静かだった。
モニターの電子音が、一定のリズムで鳴っている。
酸素マスクの音が、亮平の呼吸に合わせて、規則的に響いている。
窓の外は暗かった。
十二月の夜の闇が、窓ガラスに貼りついていた。
早苗は亮平の横の丸椅子に座った。
モニターを確認した。
数値は安定していた。
亮平が、目を開けた。
酸素マスク越しに、早苗を見た。
声が出しにくそうだった。
口が、少し動いた。
「マスクは外さないでください」と早苗は言った。
「話さなくていいです」
亮平は少しの間、早苗を見ていた。
それから、目を閉じた。
しばらくして、また開いた。
口が動いた。
「ごめんな」
マスク越しの、かすれた声だった。
でも、聞こえた。
早苗は少し止まった。
「何が」とは聞かなかった。
謝る理由は、いくつか考えられた。
深夜に呼び出したこと。
急変してしまったこと。
あるいは、それ以外の何か。
でも早苗は聞かなかった。
聞かないほうがいいと、直感した。
「休んでください」と早苗は言った。
亮平はそれを聞いて、目を閉じた。
それから十分ほどして、亮平が目を開けた。
マスクの上から早苗を見た。
また口が動いた。
「もう疲れた」
かすれていたが、はっきり聞こえた。
早苗は返事をしなかった。
疲れた、という言葉を、亮平が言うのを、早苗は初めて聞いた。
屋上で「君の手で終わらせてほしい」と言ったときも、同意書にサインをしたときも、味がわからなくなった鯛茶漬けを食べたときも、亮平は弱音を吐かなかった。
状況を受け取って、静かに、前を向いていた。
それが今夜、崩れた。
深夜の急変の後、酸素マスクをつけたまま、「もう疲れた」と言った。
その言葉の重さを、早苗は受け取った。
受け取りながら、何も言えなかった。
医師として言うべき言葉がある。「今夜は休んでください」「明日また話しましょう」。
そういう言葉は、いくらでも出てくる。
でも今夜の「疲れた」に、そういう言葉を返すことが、早苗にはできなかった。
早苗は黙っていた。
モニターの音が、静かに鳴り続けていた。
「今夜のことで」と亮平が言った。
また言葉が途切れた。
少し間をおいて、続けた。
「呼び出して、悪かった」
「当直です」と早苗は言った。
「呼ぶのは当然のことです」
「でも」
「でも、じゃないです」
少し、強い言い方になった。
亮平は黙った。
早苗も黙った。
早苗は窓の外を見た。
十二月の夜の闇の中に、遠く、ビルの灯りがいくつか光っている。
この時間に、あの灯りの中に何があるのか。
眠れない誰かがいるのか。
働いている誰かがいるのか。
早苗は、そういうことを、深夜になると考えることがある。
病棟の外にある、無数の人の時間のことを。
まだここにいてほしい。
その思いが、静かに、浮かんできた。
驚いた。
自分でも、驚いた。
患者に対して、そう思うことはある。
もう少し持ちこたえてほしい、という意味では。
でも今夜の「まだここにいてほしい」は、それとは違う場所から来ていた。
医師としての感情ではなかった。
もっと個人的な、もっと直接的な場所から来ていた。
亮平にいてほしい。ここに。
それが医者としての感情なのか、女としての感情なのか、早苗には判断できなかった。
判断しようとして、できなかった。
ただ、その思いが、胸の中に、確かにあった。
二時間ほどして、亮平の呼吸が安定した眠りに入った。
モニターの数値は正常範囲で落ち着いている。
酸素マスクを通じた呼吸音が、規則正しく繰り返されていた。
眠っている亮平の顔は、穏やかだった。
昼間より、力が抜けていた。
早苗は立ち上がろうとして、止まった。
当直室に戻ることはできた。
もうしばらく様子を見る必要はあるが、数値が安定している以上、ここにいる医学的な理由は薄かった。
それでも、早苗は椅子に座ったままでいた。
亮平の眠っている顔を、見ていた。
思えば、亮平の眠っている顔を、こんなにじっくり見たのは、十二年ぶりだった。
いや、十二年前は、見ていたのかどうかも、もう定かではない。
ただ、今夜、この病室の薄い明かりの中で、眠っている亮平の顔を見ていた。
痩せていた。
頬の骨が、皮膚の下に浮かんで見える。
首筋が細い。
転院してきた八月からの四ヶ月で、身体はずいぶん変わった。
それでも、眠っている顔には、何か、変わっていないものがあった。
眉の形か、唇の閉じ方か、うまく言えないけれど。
早苗は、椅子の背もたれに、そっと身をあずけた。
ほんの少しだけ、目を閉じようと思った。
目が覚めたとき、窓の外が、白み始めていた。
早苗は一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。
次の瞬間に思い出した。
亮平の病室だった。
椅子に座ったまま、眠っていた。
モニターの数値を確認した。
安定していた。
亮平はまだ眠っていた。
呼吸は穏やかだった。
早苗は立ち上がって、白衣の乱れを直した。
髪を手で整えた。
椅子を元の位置に戻した。
ドアに向かいかけて、振り返った。
眠っている亮平の横顔が、朝の薄明かりの中にあった。
窓の外の白さが、少しずつ濃くなっていた。
十二月の夜明けは遅い。
それでも、確かに、朝が来ていた。
早苗はドアを開けた。
廊下に出ると、夜明け前の冷気が、すっと入ってきた。
病棟が、静かに、一日を始めようとしていた。
遠くで、最初の物音がした。
誰かが動き始めた音だった。
早苗は廊下を歩き始めた。
昨夜の「もう疲れた」という声が、まだ耳の中に残っていた。
まだここにいてほしい。
昨夜浮かんだ思いも、消えていなかった。
消えないまま、朝の廊下を歩いた。
答えのないまま、一日が始まった。




