第十話 「硝子の天秤」
十二月の中旬になると、日が短くなった。
午後四時を過ぎると、病棟の廊下に夕暮れの光が差し込んでくる。
その光が、リノリウムの床に長く伸びて、五時になる前に消える。
冬至まであと一週間ほどだった。
一年で一番、昼が短い時期。
早苗はこの季節になると、光の量が人の気持ちに与える影響を、職業的に意識する。
日照時間の減少は、患者の精神状態に影響する。
うつ症状が悪化しやすい。
睡眠が乱れやすい。
それは患者だけの話ではない、と今年は初めて思った。
自分自身のことを思った。
急変から一週間が経っていた。
誤嚥性肺炎の疑いは、抗生剤の投与で落ち着いた。
亮平の状態は、急変前の水準に戻った。
ただ、戻った、というのは正確ではない。
急変前より、全体的にわずかに低いところに落ち着いた。
回復ではなく、段差を一つ降りた、という感じだった。
亮平はそのことを、誰にも言わなかった。
早苗にも、めぐみにも。
ただ、病室の窓の外を見る時間が、以前より長くなったように、早苗には見えた。
急変の夜に聞いた「もう疲れた」という言葉が、早苗の中でまだ、消えていなかった。
浅野の部屋を訪ねたのは、水曜日の夕方だった。
廊下の窓に、最後の夕光が残っていた。
早苗はそれを横目に見ながら、浅野の部屋のドアをノックした。
「入れ」
浅野は椅子に座って、コーヒーを飲んでいた。
珍しかった。
この時間に、手ぶらでいる浅野を、早苗は見たことがなかった。
「何か」と浅野は言った。
「少し聞いていいですか」と早苗は言った。
今日は「一般論として」とは言わなかった。
浅野は早苗を見た。
「座れ」
早苗は椅子を引いて座った。
膝の上に手を置いた。
それから、顔を上げて、浅野を見た。
「先生は」と早苗は言った。
「患者の死を、早めたいという気持ちになったことがありますか」
部屋が、静かになった。
廊下の足音が、遠くを通り過ぎた。
浅野はコーヒーカップをデスクに置いた。
それから、早苗をまっすぐ見た。
「ある」と言った。
早苗は息を止めた。
即答だった。
迷いがなかった。
「何度も、ある」と浅野は続けた。
「この仕事をしていれば、そう思わない人間のほうが、おかしい」
「でも」と早苗は言った。
「先生はそれをしなかった」
「そうだ」
「なぜですか」
浅野は少しの間、窓の外を見た。
夕光が消えかけていた。
空が、濃い青になっていく。
「したくなかったからじゃない」と浅野は言った。
「できる状況になかった、あるいはする必要がなかった、ということのほうが多い。苦痛が緩和されれば、患者自身の気持ちが変わることもある。死にたい、という言葉の裏に、ただ苦しみを取り除いてほしい、という意味が隠れていることがある」
「でも、そうでない場合も」
「ある」と浅野は静かに言った。
「そうでない場合も、ある」
早苗は黙っていた。
「君に聞き返していいか」と浅野が言った。
「はい」
「今、君が抱えているのは、患者の死を早めたい、という気持ちか。それとも、患者の願いに応えたい、という気持ちか」
早苗は答えを探した。
二つは違う、と思った。
でも、どう違うのかを、言葉にするのが難しかった。
「わかりません」と早苗は言った。
「どちらでもある気がして、どちらでもない気もして」
「それが正直なところだろう」と浅野は言った。
責めているのではなかった。
確認しているだけだった。
少しの間があった。
「先生」と早苗は言った。
「その気持ちがある人間は、この仕事をしてはいけないと思いますか」
浅野は早苗を見た。
しばらく見ていた。
それから、静かに言った。
「逆だ」
「逆」
「その気持ちがある人間だけが、緩和ケアをやっていいと思っている」
早苗は、その言葉をすぐには受け取れなかった。
「患者の苦しみを前にして、何も感じない人間には、この仕事はできない」と浅野は言った。「死を早めたい、という気持ちは、患者の苦しみを本当に引き受けたとき、初めて出てくる感情だ。それを持てる人間だけが、ギリギリのところで正しい判断をする力を持てる。感じない人間は、判断しているのではなく、手順を踏んでいるだけだ」
「でも」と早苗は言った。
「その気持ちが、判断を歪めることもある」
「ある」と浅野は即座に言った。
「だから難しい。感じることが必要で、感じすぎてはいけない。その均衡の上で、この仕事は成り立っている」
早苗は俯いた。
均衡。
硝子でできた天秤の上に、二つのものが乗っている。
片方には、医師の倫理と法律。
もう片方には、亮平の願いと、自分の情。
どちらも重く、どちらも本物で、どちらも降ろすことができない。
その天秤が、揺れ続けている。
割れないように、揺れている。
「選ぶのは、やはり君だ」と浅野は言った。
「私に決める権限はない。ただ」
少し間を置いた。
「君が何を選んでも、君が真剣に考えた末に選んだなら、それは君の答えだ。正しいかどうかは、私にもわからない。たぶん、誰にも、わからない」
早苗は顔を上げた。
浅野の目は、穏やかだった。
裁いていなかった。
「ありがとうございます」と早苗は言った。
「礼はいい」と浅野は言った。
コーヒーカップを再び手に取った。
「後のことは、君が決めろ」
浅野の部屋を出た早苗は、廊下をゆっくりと歩いた。
窓の外はもう暗かった。
十二月の午後五時。
完全な夜だった。
廊下の蛍光灯だけが、白く照らしている。
天秤のイメージが、頭の中にあった。
緩和ケアに来てから十五年、早苗はずっと何かを量りながら仕事をしてきた。
苦痛緩和と生命維持。
患者の意思と家族の希望。
できることとすべきこと。
その度ごとに、天秤は揺れて、早苗はその揺れを見ながら判断してきた。
今回の天秤は、違った。
片方に乗っているものが、法律と倫理だけではなかった。
自分の医師としての十五年が、乗っていた。
この仕事を続けるための、すべてが乗っていた。
もう片方には、亮平の願いだけではなかった。
十二年前に別れた男が、自分を探してここに来た。
その事実が、乗っていた。
「一番みっともなかった時を知っている人間に見届けてほしい」という言葉が、乗っていた。
硝子の天秤は、揺れていた。
割れてはいない。
ただ、揺れていた。
その日の夕方、早苗は亮平の病室に行った。
回診の時間ではなかった。
処置の時間でもなかった。
ただ、今日中に言わなければならないと思って、足が向いた。
亮平はベッドで上半身を起こしていた。
カメラのSDカードを、震える手で触っていた。
先月、許可が下りてから、亮平は少しずつ病棟の景色を撮り続けていた。
手の震えでうまく撮れないことも増えたが、三脚を使って、それでも撮っていた。
早苗が入ってくると、亮平はSDカードをブランケットの上に置いた。
「回診じゃないだろう」と亮平は言った。
「そうです」
「座るか」
早苗は丸椅子を引いて座った。
しばらく、何も言わなかった。
亮平も何も言わなかった。
病室の外から、夕方の病棟の音が、かすかに聞こえてきた。
ワゴンの車輪の音。
誰かの話し声。
それが遠ざかって、また静かになった。
「答えを出します」と早苗は言った。
亮平が、こちらを向いた。
「それが何を意味するかは、まだ言えません。でも、考えることをやめない。逃げない。それだけは、言えます」
亮平はしばらく、早苗の顔を見ていた。
何かを確かめるような目だった。
「急かすつもりは、なかった」と亮平は言った。
言葉が、少し途切れた。
構音障害が、また少し進んでいた。
「でも」少し間を置いた。
「待ってた」
「わかっています」と早苗は言った。
「ずっと、待ってた」
その言い方が、懇願ではなかった。
告白に近かった。
答えを求めているのではなく、ただ、本当のことを言った、という感じだった。
早苗は亮平の目を見た。
「私も」と早苗は言った。
続きは言わなかった。
「私も」の後に何があるのか、自分でも、まだ言語化できていなかった。
でも、「私も」という言葉だけが、出た。
亮平は何も言わなかった。
ただ、目が、少し、和らいだ。
病室を出た後、早苗はナースステーションには戻らず、廊下の窓の前に立った。
外は完全な夜だった。
病院の敷地の向こうに、街の灯りが広がっている。
十二月の夜の灯りは、どこか、他の季節より温かく見える。
冷たい空気の中にあるからかもしれない。
天秤は、まだ揺れていた。
どちらかに傾いたわけではなかった。
でも今日、何かが変わった。
浅野の言葉と、亮平の「待ってた」という言葉が、早苗の中で静かに交差した。
その交差点に、自分が立っている。
答えは、まだ出ていない。
でも、出す方向に、向いた。
早苗は窓から離れて、歩き始めた。
廊下の蛍光灯が、白く、真っすぐ、前を照らしていた。
その光の中を、早苗は歩いた。
冬至まで、あと数日だった。
一年で一番夜が長い日が、すぐそこに来ていた。




