第十一話 「ある夜の処置」
十二月の下旬、病棟にクリスマスの飾りが出た。
ナースステーションのカウンターに、小さなツリーが置かれていた。
めぐみが持ってきたものだった。
「少し明るくなりますよね」とめぐみは言った。
早苗は「そうですね」と言った。
ツリーの先端についた小さな星が、蛍光灯の光を受けて、鈍く光っていた。
病棟のクリスマスは、いつも静かだ。
外の世界のクリスマスとは、別の時間が流れている。
イルミネーションも、賑やかな音楽も、ここには届かない。
ただ、小さな飾りだけが、それが特別な時期であることを、ひっそりと示している。
患者たちは、それをどう受け取るのだろう、と早苗はいつも思う。
今年は、その問いが、より近くにあった。
亮平は、ツリーを見て、「きれいだな」と言った。
言葉が途切れがちになった今も、短い言葉は出た。
「きれい」「寒い」「ありがとう」。
そういう言葉は、まだ届いた。
その夜、早苗は遅くまで医局に残っていた。
書類の整理をしていた。
カルテの更新をしていた。
でも、手はときどき止まった。
止まって、また動いた。
時計を見た。
午後十一時を過ぎていた。
病棟は消灯していた。
早苗は立ち上がった。
白衣のポケットを確認した。
聴診器。
ペンライト。
それから、今夜持ってきたもの。
投与量の計算は、もう何度も確認していた。
数字は頭に入っていた。
廊下に出た。
深夜の廊下は静かだった。
蛍光灯が、白く長く伸びている。
ナースステーションに、夜勤の看護師が一人、書類に向かっていた。
早苗の顔を見て、「先生、まだいらしたんですか」と言った。
「少し確認したいことがあって」と早苗は言った。
「津田さんの様子を見てきます」
「さっきの見回りでは、眠っていました」
「わかりました」
廊下を歩いた。
足音を、いつもより、ゆっくりにした。
亮平の病室のドアの前に立った。
少しの間、そこに立っていた。
ドアの向こうの気配を、確かめるように。
ドアを開けた。
病室は暗かった。
窓から、十二月の夜の光が薄く差し込んでいた。
街の灯りが、カーテン越しに滲んでいる。
モニターの緑の光が、一定のリズムで点滅していた。
その音が、静かに、繰り返されていた。
亮平は眠っていた。
早苗はドアを閉めた。
音を立てないように。
病室の中に、一歩、入った。
亮平の呼吸を確認した。
規則的だった。
顔色を見た。
穏やかだった。
モニターの数値を見た。
安定していた。
早苗は、ベッドの横の丸椅子に、座った。
しばらく、亮平の顔を見ていた。
眠っている顔だった。
力が抜けていた。
先月の急変の夜に見た顔と、同じだった。
あのときも、早苗はこの椅子に座って、夜明けまでいた。
今夜も、同じ椅子に、同じように座っている。
でも、今夜は違う。
早苗はポケットに手を入れた。
指先が、冷たかった。
亮平が目を開けたのは、それから少しして、だった。
気配を感じたのかもしれなかった。
あるいは、眠りが浅かったのかもしれない。
目を開けて、早苗を見た。
暗い病室の中で、二人の目が合った。
亮平は驚かなかった。
待っていたような目だった。
いつか来ると思っていた、という目だった。
早苗は何も言わなかった。
亮平も何も言わなかった。
モニターの音だけが、規則的に、繰り返されていた。
早苗は立ち上がった。
ベッドの横に立った。
点滴のラインを確認した。
ゆっくりと、手を動かした。
指先が、かすかに震えていた。
それでも、手は動いた。
亮平が、口を開いた。
声が出にくかった。
それでも、言葉になった。
「早苗」
桐島先生、ではなかった。
先生、でもなかった。
早苗、と言った。
十二年前に呼ばれていた名前で、呼んだ。
早苗は手を止めなかった。
でも、目を、亮平の顔に向けた。
亮平は天井を見ていた。
目が、薄く、濡れていた。
泣いているのではなかった。
泣くような顔ではなかった。
ただ、目が、光を受けて、濡れていた。
早苗は何も言わなかった。
手が、またかすかに震えた。
今夜、自分が何をしようとしているのか、早苗はわかっていた。
何のためにここに来たのかを、わかっていた。
数字は頭に入っていた。
手順は、何度も確認した。
亮平の願いを、聞き続けた末に、ここに来た。
でも。
亮平の名前で呼ばれた瞬間に、手の震えが、止まらなくなった。
どのくらいの時間が経ったか、わからなかった。
早苗の手は、途中で、止まっていた。
止まった手が、そのまま、動かなかった。
頭の中で、何かが、言葉にならないまま、渦巻いていた。
法律の言葉でもなかった。
倫理の言葉でもなかった。
浅野の声でもなかった。
ただ、言葉にならない何かが、手を止めていた。
できなかった。
しようとした。
ここまで来た。
数字も、手順も、準備していた。
亮平の声を、何度も聞いてきた。
それでも、最後の一歩が、踏み出せなかった。
医師だから、ではなかった。
法律が、ではなかった。
もっと手前の、もっと深いところで、何かが動かなかった。
早苗は、そっと、手を引いた。
代わりに、投与量を、別の形で調整した。
苦痛を深く取り除くための量に。
眠りを、深くするための量に。それは治療の範囲だった。
越えなかった。
越えられなかった。
越えたくなかったのか、越えてはいけなかったのか、その区別が、今の早苗には、つかなかった。
処置が終わった。
モニターの音が、変わらず、繰り返されていた。
亮平の呼吸が、少し、深くなった。
薬が効いてきた。
顔から、力が抜けていった。
亮平は、目を細めた。
薄暗い病室の中で、亮平の唇が、動いた。
「おやすみ」
ありがとう、でもなかった。
さよなら、でもなかった。
おやすみ、と言った。
早苗は、答えなかった。
答えの代わりに、ベッドの上に置かれた亮平の手を、そっと、握った。
一秒か、二秒か。それだけの時間、握った。
亮平の手は、震えていなかった。
早苗の手が、震えていた。
病室を出た。
ドアを閉めた。
廊下に出た。
廊下の蛍光灯が、白く、静かに、照らしていた。
どこかの病室から、低い寝息が聞こえた。
ナースステーションの方向から、かすかに、機器の音がした。
早苗は廊下に立ったまま、動けなかった。
一分か、二分か、立っていた。
白衣のポケットの中で、手を握った。
亮平の手の温度が、まだ指先に残っていた。
震えていた自分の手が、今は、静かだった。
できなかった。
その言葉が、頭の中で、静かに、落ちた。
悔いているのか、安堵しているのか、早苗にはわからなかった。
両方が、同じ場所にあった。
どちらかだけを選ぶことが、できなかった。
ナースステーションのカウンターのツリーが、遠くに見えた。
小さな星が、蛍光灯の光を受けて、鈍く光っていた。
早苗は歩き始めた。
廊下を、一歩ずつ、歩いた。




