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第十二話 「春を待つ人」

 一月の朝は、遅く明ける。

 病棟の窓ガラスに、霜が張っていた。

 細かい結晶が、ガラスの端から中央に向かって、白く広がっている。

 その向こうに、冬の空が見えた。

 まだ暗さの残る、薄い青だった。


 早苗は更衣室で白衣に着替えながら、昨夜のことを、静かに、頭の中に置いていた。

 整理しようとは、しなかった。

 整理できるものではなかった。

 ただ、置いていた。

 昨夜起きたことを、今朝の自分の隣に、そのまま置いていた。


 廊下に出た。一月の病棟の朝は、冷えていた。

 暖房が動き始めたばかりで、廊下の空気はまだ、夜の冷たさを引きずっていた。

 早苗は白衣の前を合わせて、歩き始めた。

 亮平の病室へ向かった。


 ドアを開けると、めぐみがいた。

 朝の体温測定の最中だった。

 早苗が入ってきたのを見て、めぐみは少し表情を和らげた。

「先生、おはようございます」

「おはようございます。状態は」

「昨夜から、よく眠っていました」とめぐみは言った。

 それから、亮平のほうを見て、「穏やかな顔してますね」と言った。

 声が、少し、柔らかかった。

「昨日より、ずっと穏やかです」


 早苗は亮平のベッドの横に立った。

 眠っていた。

 深く、静かに。

 呼吸は規則的だった。

 モニターの数値は、安定していた。

 脈はある。

 顔から力が抜けて、眉間の皺が、消えていた。

 痛みを抱えているときの緊張が、今朝はなかった。

 穏やかだった。

 めぐみが言った通りだった。

 昨夜の処置が、確かに効いていた。

 苦痛を深く取り除くための量の調整が、亮平の身体から、痛みの緊張を、ひとまず遠ざけていた。

 早苗はモニターを確認した。

 それからカルテを開いた。

 昨夜の処置記録が、自分の手で入力した通りに、並んでいた。

 鎮痛剤の投与量の変更。

 理由:疼痛コントロールの強化。

 それだけが、書いてあった。

 それ以外のことは、書いていなかった。

 書けることしか、書かなかった。

 書けないことは、昨夜の病室の暗がりの中に、置いてきた。


 朝の申し送りの後、浅野が早苗を呼んだ。

 廊下ですれ違いざまに、「少しいいか」と言った。

 穏やかな声だった。いつもの浅野の声だった。

 二人で、処置室の前に立った。

 誰もいない場所だった。

 浅野は手元に、昨夜の処置記録のコピーを持っていた。

 早苗はそれを見た。

 見ながら、息を整えた。


「津田さんの昨夜の処置だが」と浅野は言った。

「はい」

 浅野は記録を、ひと通り見た。

 それから、早苗の顔を見た。

「適切な緩和処置だ」と言った。

 それだけだった。

 それ以上は、何も言わなかった。 

 記録のどこかに疑問を呈するでもなく、何かを問いただすでもなく、ただ「適切な緩和処置だ」と言って、コピーを手元に戻した。

 早苗は「はい」と言った。

 浅野はそれを聞いて、頷いた。

「今日も頼む」と言って、廊下を歩いていった。

 早苗はその背中を、少しの間、見ていた。

 浅野がどこまで知っているのか、早苗にはわからなかった。

 昨夜、病棟に早苗がいたことは、夜勤の看護師が知っている。

 処置記録は、読めばわかる。

 浅野はこの病棟に長くいる。

 早苗が何をしようとして、何をしたのか、あるいはしなかったのか、その輪郭を、読んでいるかもしれなかった。

 それでも、浅野は「適切な緩和処置だ」と言った。

 それ以上は、何も言わなかった。


 昼前、早苗は再び亮平の病室に入った。

 亮平はまだ眠っていた。

 朝より、眠りが少し浅くなっている気配があった。

 呼吸のリズムが、わずかに変わっていた。

 早苗は丸椅子を引いて、座った。

 窓の外に、一月の光が差し込んでいた。

 冬の光は角度が低い。

 病室の床に、斜めに長く伸びていた。

 霜が溶けた窓ガラスが、その光を受けて、薄く輝いていた。

 眠っている亮平の顔を、早苗は見た。


 あなたの願いに、私は応えなかった。

 心の中で、言葉が落ちた。

 声には出なかった。

 ただ、胸の中に、静かに、あった。

 応えなかった。

 しようとして、できなかった。

 昨夜の病室の暗がりの中で、手が止まった。

 止まって、別の選択をした。

 治療の範囲の中で、できることをした。

 それ以上には、踏み出せなかった。

 でも、終わらせることも、できなかった。

 その二つが、同じ場所にあった。

 応えなかった、という事実と、終わらせられなかった、という事実。

 どちらが正しくて、どちらが間違っているのか、今の早苗には、判断できなかった。

 判断しようとも、していなかった。

 ただ、亮平はまだ、ここにいる。

 それだけが、今朝の事実だった。


 どのくらいそうしていたか、亮平の呼吸が、少し変わった。

 眠りが、浮かんできた。

 まぶたが、ゆっくりと動いた。

 それから、薄く、開いた。

 天井を見ていた。

 それから、視線が、横に動いた。

 早苗の顔を、見た。

 一瞬、どこにいるのかを確かめるような目だった。

 病室の白い天井。

 窓の光。

 横に座っている人間。

 それを順番に確かめて、それから、焦点が合った。

 亮平は、かすかに、笑った。

 声のない笑いだった。

 唇の端が、わずかに上がった。

 目の端に、皺が寄った。

 本当に感謝しているときの、亮平の笑い方だった。

 早苗が知っている、あの笑い方だった。

「おはよう」と亮平は言った。

 かすれていた。でも、届いた。

 早苗は、一拍、置いた。

「おはようございます」と言った。

 それだけだった。

 昨夜のことには触れなかった。

 亮平も触れなかった。

 二人の間に、昨夜の時間は、言葉にならないまま、でも確かに、あった。

 窓の外に、冬の光が続いていた。


 その日の午後、早苗は医局で一人、カルテの更新をしていた。

 手を動かしながら、頭の中で、昨夜からの時間を、ゆっくりと、たどっていた。

 亮平はまだ、ここにいる。

 早苗の選択が、亮平をここに留めた。

 それが正しかったのかどうかは、わからない。

 亮平が「よかった」と思っているのか、「なぜ」と思っているのかも、わからない。

 今朝の「おはよう」の言葉と、かすかな笑いが、何を意味していたのかも、わからない。

 わからないことだらけだった。

 でも、一つだけ、わかることがあった。

 あの瞬間、早苗の手を止めたものが何であれ、それは早苗の中にあったものだった。

 法律でも、倫理の言葉でも、浅野の声でもなかった。

 もっと深い、もっと個人的な場所にあったものが、手を止めた。

 それが何なのかを、言語化しようとして、早苗は途中で止めた。

 言語にしなくてもいい、と思った。

 言語にしてしまうと、何か大切なものが、零れる気がした。

 早苗はカルテの入力を再開した。


 窓の外に、一月の空が広がっていた。

 低い冬の光が、斜めに差し込んでいた。病院の敷地の木々は、まだ枝だけだった。

 葉はなかった。

 ただ、枝の先端が、ほんのわずか、膨らんでいるように見えた。

 気のせいかもしれなかった。

 それでも、早苗はもう一度、その枝先を見た。

 春は、まだ遠かった。

 でも、どこかに、確かに向かっていた。

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