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第十三話 「カメラの中の景色」

 二月に入ると、日が少しずつ長くなった。


 午後五時を過ぎても、廊下の窓に、わずかに光が残るようになった。

 十二月の冬至の頃には、四時半には消えていた光が、少しずつ、帰り際まで残るようになっていた。

 その変化は、毎日では気づかない。

 でも一週間、二週間と経つうちに、確かに、光の量が違っていた。

 早苗はその変化を、今年は、丁寧に確認していた。

 亮平の病室の窓から差し込む光の角度が、少しずつ変わっていた。

 それを、早苗は毎朝の回診のたびに、意識するようになっていた。


 一月の処置の夜から、亮平との間に、何かが変わった。

 変わった、というより、何かが、静かに落ち着いた、という感じだった。

 緊張が解けたのではなく、緊張の種類が変わった。

 あの夜を境に、二人の間から、ある種の切迫感が、薄れた。

 早苗が何かをしなければならない、あるいはしてはならない、という張り詰めた空気が、少し、緩んだ。

 亮平は、それ以来、安楽死の話をしなかった。

 早苗も、しなかった。


 あの夜のことは、二人の間で、言葉にされないまま、でも確かに存在していた。

 触れないのではなく、触れる必要がなくなった、という感じだった。

 亮平の病状は、引き続き、少しずつ進んでいた。

 言葉が出にくくなっていた。

 長い文章は難しくなって、短い言葉のやり取りが中心になっていた。

 手の震えは続いていて、細かい動作はほとんどできなかった。

 それでも、亮平は毎日、三脚に固定した小さなカメラのシャッターを、震える指で押し続けていた。


 カメラの話が出たのは、二月の最初の週の午後だった。

 早苗が回診を終えて病室を出ようとすると、亮平が「少し」と言った。

 短い言葉だった。

「時間」と続けた。

「あります」と早苗は言って、丸椅子に座り直した。

 亮平はベッドの脇に置いてあるカメラに、目を向けた。

 それから早苗に目を向けた。

「見るか」と亮平は言った。

「カメラの」

 亮平は頷いた。

 早苗は少しの間、亮平の顔を見た。

 誘っているのか、確かめているのか、その両方なのか。

 亮平の目は、穏やかだった。

「見せてもらえますか」と早苗は言った。


 亮平は頷いて、カメラのほうに目を向けた。

 自分では取れない、という仕草だった。

 早苗は立ち上がって、カメラを手に取った。

 小さかった。

 手のひらに収まる大きさだった。

 これで、この四ヶ月、亮平は病棟の景色を撮り続けていた。

「SDカードを」と亮平は言った。

「抜いて」

 早苗はカメラの側面のスロットを開けた。

 小さなSDカードが入っていた。

 親指の爪ほどの大きさの、薄いカードだった。

 これの中に、亮平が切り取ってきた景色が、入っている。


「ノート」と亮平は言った。

 ベッドの脇の棚を目で示した。

 棚の上に、薄いノートパソコンがあった。

 早苗はそれを手に取った。

 亮平が頷いた。

 早苗はカードをノートパソコンに差し込んだ。

 ファイルが開いた。

 動画と静止画が、日付順に並んでいた。

 八月から始まって、二月まで。

 四ヶ月分の記録が、そこにあった。

「最初から」と亮平は言った。

 早苗は一番古いファイルを開いた。


 最初の映像は、八月だった。

 転院してきた翌週、カメラの持ち込みが許可される前に、スマートフォンで撮ったらしい映像だった。

 病室の窓から見える景色だった。

 夏の空。

 青く、高く、どこまでも続く空。

 白い雲が、ゆっくりと流れていた。

 映像は三十秒ほどだった。

 カメラは動かなかった。

 ただ、窓の外の空を、じっと写し続けていた。

 次の映像。

 廊下だった。

 消灯後の夜の廊下。

 蛍光灯の白い光が、長く伸びている。

 人の姿はない。

 どこかの病室から、低い機械音が聞こえる。

 その廊下を、カメラはただ、写していた。

 次。

 病棟の食堂の窓。

 外に欅の木が見える。

 葉がまだ青かった。

 八月の終わりの欅だった。

「これは」と早苗は言った。

「許可が下りる前ですよね」

 亮平は少し笑った。

「こっそり」と言った。

「規則違反です」

「うん」

 亮平は笑ったまま言った。

 悪びれていなかった。

 早苗も、笑いそうになって、止めた。

 止めきれなかった。

 少しだけ、笑った。


 映像を、順番に見ていった。

 九月の映像。

 病棟の廊下の窓から見える空が、高くなっていた。

 秋の空だった。

 光の角度が、夏と違う。

 影の伸び方が、変わっていた。

 亮平は、その変化を、丁寧に記録していた。

 同じ窓を、同じ角度から、日付を変えて何度も撮っていた。

 一枚一枚は、ほとんど同じ景色に見える。

 でも並べると、光が変わっていく。

 影が変わっていく。

 季節が、確かに動いていた。

「同じ場所を、何度も撮ってるんですね」と早苗は言った。

「変化を」と亮平は言った。

 少し間を置いて、「撮りたかった」と続けた。

 早苗はその言葉を、受け取った。


 変化を撮りたかった。

 記録映画を撮ってきた人間の、本能のようなものだった。

 川の源流から河口まで追いたかった、という話を思い出した。

 変化の中に、時間がある。

 時間の中に、何かが宿る。

 亮平はずっと、そういうものを撮ってきたのだろう、と早苗は思った。


 十月の映像。

 銀杏の並木だった。

 窓越しに撮った、黄色くなりかけた並木。

 それが、日ごとに黄色くなっていく。

 葉が落ちていく。

 枝だけになっていく。

 その変化が、十数枚の静止画に、記録されていた。

 早苗は、その並木を、自分も毎朝見ていたことを思い出した。

 同じ並木を、亮平も、病室の窓から見ていた。

 見ていたものが、同じだった。

 その事実が、胸の中に、静かに、落ちた。


 十一月の映像に入った。

 食事の映像があった。

 田村が用意した鯛茶漬けだった。

 白い器に、ペースト状にされた鯛と、出汁。

 すりごまと大葉。

 カメラは、その器を、しばらく写していた。

 食べる前に、記録していた。

 早苗は、その映像を見て、少し、胸が詰まった。

 味はわからなくなってきた、と言いながら、食べる前に、記録していた。

 形は変わっても、それが鯛茶漬けであることを、映像に残していた。

「食べる前に撮ったんですね」と早苗は言った。

 亮平は頷いた。

「残したかった」と言った。

 それ以上は言わなかった。

 早苗も、それ以上は聞かなかった。


 十二月の映像に入ったとき、早苗は少し、身構えた。

 クリスマスのツリーの映像があった。

 ナースステーションのカウンターに置かれた、

 小さなツリー。

 めぐみが持ってきたものだった。

 その先端の星が、蛍光灯の光を受けて、鈍く光っていた。

 亮平は、それを写していた。

 廊下の映像。 

 夜の廊下だった。

 消灯後の、誰もいない廊下。

 蛍光灯の光が、リノリウムの床に反射している。

 その光の中に、白衣の後ろ姿があった。

 早苗は、画面を見て、止まった。

 白衣の後ろ姿。

 女性だった。

 廊下を歩いていた。

 カメラはその後ろ姿を、しばらく写し続けた。

 後ろ姿が、廊下の奥に遠ざかっていく。

 遠ざかって、角を曲がって、消えた。


「これは」と早苗は言った。

 答えは、わかっていた。

 でも、聞いた。

 亮平は何も言わなかった。

 ただ、画面を見ていた。

 早苗は画面を見た。

 白衣の後ろ姿が消えた廊下が、しばらく写り続けていた。

 誰もいない廊下。

 蛍光灯の光だけが、静かに、伸びていた。

 その映像が、どこで撮られたものか、早苗にはわかった。

 亮平の病室のドアから、廊下を向けて撮ったものだった。

 ドアが少し開いていて、その隙間から、廊下を歩く早苗の後ろ姿を、亮平は撮っていた。

 早苗は、めぐみから聞いた言葉を思い出した。

 笑わない人だった。

 俺の前だけでは笑ったけど。

 亮平は、早苗の後ろ姿を、撮っていた。

 早苗が気づかないときに、病室のドアの隙間から、廊下を歩く白衣の背中を、記録していた。

 早苗は何も言えなかった。

 画面の中の廊下は、静かだった。


 映像は、まだ続いた。

 一月の映像。

 病室の窓から見える、霜の張ったガラス。

 その向こうに、冬の空。

 光の角度が、十二月より少し、高くなっていた。

 早苗は、それを見ながら、亮平がこの四ヶ月、何を記録しようとしていたのかを、少しずつ、理解していった。

 病棟の景色だった。

 でも、ただの病棟の景色ではなかった。

 変化していくものを、丁寧に記録していた。

 光の変化。

 季節の変化。

 そして、廊下を歩く人の気配。

 川の源流から河口まで追う映画を撮りたかった、と後輩に話していた。

 でも、それが撮れなくなってから、亮平はここで、別の川を撮っていた。

 病棟という場所を流れる、時間という川を。


 最後のファイルを、早苗は開いた。

 それは静止画だった。

 病室のドアが開いて、誰かが入ってくる瞬間の写真だった。

 逆光で、シルエットになっていた。

 白衣を着た人間が、ドアを開けて、病室に入ってくる。

 その人間の顔は、光の加減で、はっきりとは見えなかった。

 でも、輪郭はわかった。

 早苗だった。

 いつ撮られたものか、わからなかった。

 でも、病室のドアを開けて入ってくる早苗を、亮平は、ベッドから、カメラで、撮っていた。

 最後のカットとして。

 早苗は、画面を見たまま、動けなかった。


「全部」と亮平が言った。

 ゆっくりと、言葉を選びながら。

「見て」また少し間を置いた。

「ほしかった」

 早苗はノートパソコンから目を離して、亮平を見た。

 亮平は早苗を見ていた。

 穏やかな目だった。

 何かを求めている目ではなかった。

 ただ、届いたかどうかを、確かめている目だった。

「見ました」と早苗は言った。

 声が、少し、掠れた。

 気づいて、もう一度、「見ました」と言った。

 今度は、ちゃんと届く声で。

 亮平は、目を細めた。

 早苗は、ノートパソコンをそっと閉じた。

 SDカードを抜いた。

 カメラのスロットに、戻した。

 それをベッドの脇の棚に、置いた。


「また」と亮平は言った。

 途中で言葉が止まった。

 少し間があった。

「来るか」

「来ます」と早苗は言った。

「明日も」

 亮平は頷いた。

 病室に、二月の光が差し込んでいた。

 一月より少し、高い光だった。

 病室の床に伸びる影が、少しだけ短くなっていた。

 窓の外の枝には、先週より、少し大きく、芽が膨らんでいた。

 早苗はそれを見た。


「春」と亮平が言った。

 目が、窓の外に向いていた。

「来るな」

「来ます」と早苗は言った。

 亮平は頷いた。

 それから、また窓の外を見た。

 二月の光の中に、膨らみかけた枝先が、細く、静かに、伸びていた。

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