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エピローグ 「天秤は揺れたまま」

 三月に入って最初の週、病院の敷地の梅が咲いた。

 白い小さな花が、枝の先に、ひとつずつ、ひとつずつ、開いていた。

 派手ではなかった。

 遠くから見ると、枝に白い点が散っているだけだった。

 でも近づくと、確かに花だった。

 冬の間、枝だけだった木が、気づいたら花をつけていた。


 亮平が逝ったのは、二月の終わりの朝だった。

 夜明け前から呼吸が変わり始めて、めぐみが早苗に連絡をした。

 早苗が病室に着いたとき、亮平はまだ息をしていた。

 目は閉じていた。

 眠っているようだった。

 モニターの数値が、ゆっくりと、下がっていった。

 早苗はベッドの横に立って、それを見ていた。

 何もしなかった。

 何もする必要がなかった。

 亮平の呼吸が、少しずつ、浅くなっていった。

 それから、止まった。

 穏やかだった。

 苦しむ様子はなかった。

 顔から、最後まで、力が抜けていた。

 十二月の処置の夜から、亮平は大きな苦痛なく、眠るような時間を過ごしていた。

 痛みの波はあったが、深いところまで落ちることは、なかった。

 それだけは、確かだった。


 その日の午後、めぐみが早苗のところに来た。

「穏やかでしたよ」とめぐみは言った。

「最期まで」

 早苗は頷いた。

「よかったです」とめぐみは続けた。

 声が、少し、揺れた。

「津田さん、穏やかな方でしたから。最期もそうであってほしいと、ずっと思っていたので」

「ありがとう」と早苗は言った。

「よく診てくれました」

 めぐみは少し俯いた。

 それから、顔を上げて、「先生も」と言った。

 それだけ言って、行ってしまった。

 廊下に一人残って、早苗はしばらく、動けなかった。

 泣くかと思ったが、泣かなかった。

 涙が出なかったのではなかった。

 泣く場所が、まだ、見つからなかった。


 翌朝、早苗は亮平の病室を最後に確認した。

 ベッドはきれいに整えられていた。

 シーツが新しく張られて、枕が、中央に、きちんと置かれていた。

 亮平がいたときの気配は、何も残っていなかった。

 病室は、次の患者を待つ、白い空間に戻っていた。

 早苗は病室に入って、窓の前に立った。

 外に、梅の木が見えた。

 白い花が、三月の光の中にあった。

 亮平が見続けた窓だった。

 八月の夏の空から始まって、九月の高い空、十月の銀杏、十一月の枯れ枝、十二月の冬の闇、一月の霜、二月の芽吹き。

 その窓から見えた景色を、亮平はカメラに収め続けた。

 今、その窓の外に、梅が咲いていた。

 亮平は、これを見なかった。

 その事実が、静かに、胸の中に落ちた。


 窓から離れようとして、枕元に目が止まった。

 小さなものが、置いてあった。

 SDカードだった。

 親指の爪ほどの、薄いカード。

 めぐみが片付けのときに気づかなかったのか、あるいは残しておいたのか、枕元の端に、ひとつ、置かれていた。

 早苗はそれを手に取った。

 二月に、一緒に見た。

 亮平が撮り続けてきた四ヶ月の記録を、二人で見た。

 同じ窓から見ていた景色。

 廊下の光。

 白衣の後ろ姿。

 そして最後のカット——病室のドアを開けて入ってくる、逆光の中のシルエット。

 早苗はSDカードを、ポケットに入れた。

 病室を出た。


 屋上に上がったのは、その日の昼過ぎだった。

 三月の屋上は、十月や十一月とは違う空気だった。

 風はまだ冷たかったが、その冷たさの中に、柔らかいものが混じっていた。

 土の匂いのような、水の匂いのような、何か、生きているものの気配が、風の中にあった。

 フェンスの前に立った。

 東の方角に、高層ビルの輪郭が並んでいた。

 十月に亮平と並んで見た景色だった。

 あのときは風が冷たくて、亮平のブランケットの端が揺れていた。

「君の手で終わらせてほしい」という言葉が、風の中に落ちた。

 早苗は「聞こえなかったふりをする」と言った。

 今、その場所に、一人で立っていた。


 風が吹いた。

 三月の、柔らかい風だった。

 早苗は目を閉じた。

 亮平の声が、頭の中を通り過ぎた。

 いくつもの声が。

「やっぱり、早苗か」と笑った声。

「そのしゃべり方、やめてくれないか」と言った声。

「俺が一番みっともなかった時を知ってる」と言った声。

「おやすみ」と言った声。

「春、来るな」と言った声。

 それから、最後に。

「おはよう」と言った声。

 あの朝、眠りから浮かんできた亮平が、早苗の顔を見て、かすかに笑って、「おはよう」と言った。

 その声が、一番、はっきりと、残っていた。


 早苗は目を開けた。

 空は青かった。

 三月の空は、冬より少し、柔らかい青だった。

 雲が白く、高く、流れていた。

 医者として正しかったか。

 わからなかった。

 あの夜、病室に入った。

 投与量を変えようとした。

 手が止まった。

 治療の範囲の処置をして、病室を出た。

 それが医師として正しかったのか、間違っていたのか、今も、答えが出なかった。

 法律は越えなかった。

 でも、越えようとした夜があった。

 その夜の自分を、医師として、どう裁けばいいのか、わからなかった。


 早苗として正しかったか。

 これも、わからなかった。

 亮平の願いに、応えなかった。

 十二年前に別れて、十二年後に再会して、最期を看取った。

 その時間の中で、自分は何をしたのか。

 何をすべきだったのか。

 正しい答えが、どこかにあるとは、思えなかった。

 わからないことだらけだった。

 でも、一つだけ、確かなことがあった。

 亮平は、穏やかだった。

 最期まで、穏やかだった。

 それが早苗の選択によるものなのか、亮平自身の強さによるものなのか、それも、わからなかった。

 ただ、穏やかだった、という事実だけが、あった。


 ポケットの中のSDカードが、指先に触れた。

 早苗はそれを取り出して、手のひらに乗せた。

 小さかった。

 親指の爪ほどの大きさの、薄いカード。

 この中に、亮平が最期の四ヶ月に見た景色が、入っていた。

 同じ窓から見た空。

 変わっていく並木。

 廊下の光。

 白衣の後ろ姿。

 そして、病室のドアを開けて入ってくる、逆光のシルエット。

 亮平は、最後まで、記録していた。

 川の源流から河口まで追う映画は、撮れなかった。

 カメラを持てなくなってから、三脚に固定した小さなカメラで、病棟という場所を流れる時間を、撮り続けた。

 そしてその映像の中に、早苗を、入れ続けた。

 なぜかは、言わなかった。

 言わなくても、わかる気がした。

 あるいは、わかったつもりになっているだけかもしれなかった。

 それも、わからなかった。


 風が、また吹いた。

 屋上のフェンスが、低く、鳴った。

 病院の敷地の梅の白い花が、風に揺れているのが、下に見えた。

 小さく、ひとつずつ、揺れていた。

 天秤は、今も、揺れていた。

 医師の倫理と法律。

 亮平の願いと自分の情。

 どちらも降ろせないまま、天秤は揺れ続けていた。

 揺れが止まることは、たぶん、ない。

 この先もずっと、この天秤を抱えて、早苗はこの仕事を続けていくだろう。

 それでいい、と思った。

 揺れ続けることが、この仕事だ、と思った。

 浅野が言った言葉が、また頭の中で鳴った。

 感じることが必要で、感じすぎてはいけない。

 その均衡の上で、この仕事は成り立っている。

 天秤は、硝子でできている。

 だから、揺れるたびに、光る。

 割れてはいない。

 ただ、揺れている。


 早苗は屋上を離れた。

 エレベーターで病棟に戻った。

 廊下に出ると、

 いつもの音がした。

 ワゴンの車輪の音。

 誰かの話し声。

 どこかの病室から、低く、機械の音。

 病棟は、今日も動いていた。

 ナースステーションに戻ると、めぐみがいた。

 次の患者の準備をしていた。


「先生」とめぐみが言った。

「午後の回診、始めますか」

「はい」と早苗は言った。

「始めましょう」

 白衣の前を合わせた。

 廊下を歩き始めた。

 窓の外に、三月の光が広がっていた。

 梅の白い花が、その光の中で、静かに、揺れていた。

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