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第七話 「最期の食事(一)」

 十一月の最初の朝、病院の駐車場に霜が降りた。


 出勤した早苗は、車のフロントガラスが白く曇っているのを見た。

 薄い氷の膜が、ガラスの表面を覆っている。

 今年の初霜だった。

 指先で触れると、冷たさが皮膚を通り抜けた。

 空は晴れていた。

 雲一つない、冷えた青だった。


 病棟に入ると、暖房の空気が体を包んだ。

 外との温度差が、この季節から急に大きくなる。

 患者の体には、その差がこたえる。

 早苗は更衣室で白衣に着替えながら、今日の回診の順番を頭の中で組み立てた。

 亮平の病室を、最初に回ることにした。


 十一月に入ってから、亮平の嚥下機能の低下が一段と進んでいた。

 流動食でも、とろみの濃度を上げなければ誤嚥のリスクがある。

 嚥下訓練の担当言語聴覚士が週に二回入っているが、機能の回復は望めない。

 現状を維持すること、誤嚥性肺炎を防ぐこと、それが食事に関する目標になっていた。


 食べる、ということが、亮平の生活の中で占める割合が、急速に変わっていた。

 転院してきた八月には、まだ普通食に近いものを食べていた。

 柔らかく調理したものなら、時間をかければ食べられた。

 それが九月には刻み食になり、十月には嚥下調整食になり、今は濃いとろみをつけた流動食が中心だった。

 食事の時間は、めぐみか他の看護師が横についている。

 一人では難しくなっていた。

 亮平はそれについて、早苗に直接は何も言わなかった。

 めぐみには、ときどき「うまくない」と言うらしかった。

 味の話ではなく、食べるという行為そのものが、もはや楽しみでなくなっている、という意味だと、めぐみは解釈していた。


 病室に入ると、亮平は窓の外を見ていた。

 外の木々は完全に葉を落としていた。

 枝だけが、朝の光の中に伸びている。

 霜が降りたことは、窓越しではわからない。

 ただ、空の色が、昨日より白く澄んでいた。


「おはようございます」と早苗は言った。

「おはよう」

 痛みと体調を確認した。

 昨夜の睡眠は比較的良かったという。

 モルヒネの投与量は現状維持で問題なさそうだった。

 手指の震えは変わらず、構音障害も少しずつ進んでいる。

 言葉が途切れる頻度が、先月より増えた。

 それでも亮平は、短い文章で、必要なことを伝えようとしていた。


 問診を終えて、早苗は少し間を置いた。

「食べたいものを、教えてもらえますか」と言った。

 亮平が、こちらを向いた。

「食べたいもの」

「はい。今食べられるかどうかは、別にして。食べたいと思うものがあれば」


 亮平はしばらく、早苗を見ていた。

 その問いの意味を確かめるような目だった。

「規則の範囲内で、できることを考えます」と早苗は付け加えた。

「栄養士とも相談して」

 亮平は天井を見た。

 少しの間、考えるように黙っていた。

 それから、言った。

「鯛茶漬けが食べたい」

「鯛茶漬け」

「母親がよく作ってくれた。鯛を薄く切って、昆布出汁で作ったお茶をかけて、ごまと薬味を乗せる。そういうやつ」

 早苗はメモを取った。

「たぶんもう、ちゃんとは食べられないけどな」と亮平は言った。

 感情的な言い方ではなかった。

 ただ、現状を確認するような言い方だった。

「でも、聞いてくれたから」

「わかりました」と早苗は言った。

「検討してみます」


 その日の午後、早苗は病棟の栄養士・田村を捕まえた。

 田村は四十代の、物静かな女性だった。

 嚥下食の調整を長年担当していて、患者の食事に関する相談には、いつも丁寧に向き合ってくれる。

「鯛茶漬けなんですが」と早苗は言った。

「津田さんの嚥下レベルに合わせて、何か形にできますか」

 田村は少し考えた。

「鯛の刺身を使うんですよね」

「そうです。昆布出汁のお茶をかけるタイプ」

「鯛は、薄く切って、さらに細かくすればペースト状にできます。出汁は問題ない。ごまはすりごまなら大丈夫。薬味は、種類によりますが、みょうがや大葉は柔らかくすれば使えます。全体にとろみをつければ、誤嚥のリスクを下げられます」

「形としては、かなり変わりますね」

「変わります」田村は少し間を置いた。

「でも、素材の味は出せます。出汁をちゃんと取れば、食べたときに、鯛茶漬けだとわかる味になります」

 早苗は頷いた。

「お願いできますか」

「明日の昼食に合わせて準備します」と田村は言った。

「津田さんには、楽しみにしていてもらってください」

 病院の許可を取ること、他の職員への周知、食事形態の記録への反映。

 手続きは複数あったが、早苗はその日のうちに動いた。

 亮平のために、というより、やるべきことをやる、という感覚だった。

 でも、二つは同じことだった。


 翌日の昼、田村が亮平の病室に食事を持ってきた。

 早苗も同席した。

 白い器に、ペースト状にされた鯛と、薄く色づいた出汁が入っていた。

 すりごまが表面に散らされていて、刻んだ大葉が少しだけ乗っている。

 形は、鯛茶漬けとは似ても似つかない。

 ただ、出汁の香りだけは、確かに漂っていた。

 昆布と鯛の、澄んだ香りが。


「これが」と亮平は言った。

「鯛茶漬けです」と田村は言った。

「形は変えましたが、素材はそのままです。昆布出汁で鯛を炊いて、すりごまと大葉を入れました」

 亮平はしばらく器を見ていた。

 それから、スプーンを手に取った。

 震える手で、ゆっくりと。

 一口、すくった。

 口に運んだ。

 飲み込んだ。


 早苗は亮平の顔を見ていた。

 田村も見ていた。

 亮平はしばらく、何も言わなかった。

「味、わからなくなってきた」と亮平は言った。

 声は穏やかだった。

 怒っているのでも、悲しんでいるのでもなかった。

 ただ、そうだ、という言い方だった。

「香りは」と田村が静かに聞いた。

 亮平は少し考えた。

「する。少し」

「それで十分です」と田村は言った。

「香りが届けば、記憶が届きます」


 亮平はもう一口、すくった。

 ゆっくりと口に運んだ。

 飲み込んだ。

 それをもう一度繰り返した。

「ありがとう」と亮平は言った。

 早苗と田村、どちらにともなく。

 笑っていた。

 声のない、静かな笑いだった。

 目の端に皺が寄っていた。

 その皺の入り方を、早苗は知っていた。

 本当に感謝しているときの、亮平の笑い方だった。

 田村が「ゆっくりどうぞ」と言って、病室を出た。

 早苗も「また後で来ます」と言って、ドアに向かった。


 廊下に出て、早苗はドアを閉めた。

 ナースステーションに戻ろうとして、足が動かなかった。

 廊下の窓から、十一月の光が差し込んでいた。

 霜が降りた朝の、澄んだ光だった。

 その光が、白いリノリウムの床に、長く伸びている。

 早苗は窓の下に立って、外を見た。

 葉を落とした木々が、駐車場の向こうに並んでいる。

 枝だけになった木は、こうして見ると、骨格だけが残ったように見える。

 余分なものが何もない。

 ただ、形だけがある。


 亮平の顔が、頭の中にあった。

 味がわからなくなってきた、と言いながら、それでも二口、三口とすくった。

 香りが少しする、と言った。

 その顔が、頭の中で動いていた。

 目が、熱くなった。

 早苗は気づいて、目を伏せた。

 廊下には誰もいなかった。

 窓の光の中に、自分一人が立っていた。


 泣くつもりはなかった。

 泣いている場合ではなかった。

 患者の食事に感情を動かすのは、医師として適切ではなかった。

 そういうことを言い聞かせようとして、できなかった。

 目から、一筋だけ、伝った。

 早苗はそれを、指の腹でそっと拭った。

 誰も見ていなかった。

 廊下は静かだった。

 窓の外で、枝だけの木が、風に小さく揺れていた。

 少しの間、早苗はそのまま立っていた。

 それから、息を一つ吐いて、白衣の前を合わせた。

 ナースステーションに向かって、歩き始めた。

 足音は、いつも通りだった。


 その夜、早苗は亮平のカルテに記録を入力した。

 嚥下調整食への対応、栄養士との連携、誤嚥なく摂取できたこと。

 それを打ち込みながら、田村の言葉を思い出した。

 香りが届けば、記憶が届きます。

 味がわからなくなっても、香りは残る。

 香りが届けば、その人の記憶の中にある何かに、触れることができる。

 田村はそれを、穏やかに、当然のことのように言った。

 長年この仕事をしてきた人間の言葉だった。


 早苗は入力を止めて、少し考えた。

 鯛茶漬けを、亮平は食べた。

 形は変わっていた。

 味は届かなかった。

 それでも、香りが届いた。

 その香りの中に、母親の台所の記憶が、どこかに残っていたかもしれない。

 それで十分なのか、と問われれば、十分ではない。

 十分であるはずがない。

 でも、今できることは、それだった。

 できることをする。

 それだけだった。

 早苗はカルテの入力を再開した。

 病棟の夜は、静かだった。

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