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第六話 「誰かのための嘘」

 十月の終わりになると、病棟の外の木々が葉を落とし始めた。


 銀杏は先週まで鮮やかな黄色だったのに、今週に入って急に葉が減った。

 風が吹くたびに、黄色い葉が舞い上がって、病院の駐車場に積もっていく。

 朝、出勤するたびに、昨日より地面の黄色が厚くなっている。

 それを見るたびに、早苗は何かが確実に終わっていく感触を覚えた。


 屋上での会話から、十日が経っていた。

 あの日以来、早苗は亮平との会話を、できるだけ短く、医療的な内容だけに絞ろうとしていた。

 痛みの状態、投薬の調整、身体機能の変化。

 それだけを話して、それだけを記録した。

 亮平もそれに合わせるように、余分なことを言わなかった。

 二人の間の空気は、表面だけを見れば、医師と患者の、適切な距離を保っていた。


 ただ、早苗の頭の中では、あの言葉が繰り返されていた。

 君の手で終わらせてほしい。

 朝の回診の前に、夜の当直の後に、書類を打ち込む手を止めたときに。

 繰り返されるたびに、早苗はそれを意識の隅に追いやった。

 追いやって、また戻ってきた。

「聞こえなかったふり」は、十日間、続いていた。

 でも、限界があることは、早苗自身がわかっていた。


 浅野の部屋を訪ねたのは、木曜日の昼過ぎだった。

 浅野は珍しく書き物をしていなかった。

 窓の外を見ていた。

 早苗がノックして入ると、振り返って、「どうした」と言った。

「少し相談があります」と早苗は言った。

「一般的な話として、聞いてもらえますか」

 浅野は少し目を細めた。

「一般的な、ね」

「はい」

「座れ」


 早苗は椅子を引いて座った。

 膝の上で手を組んだ。

「患者が、安楽死を望んでいる場合」と早苗は言った。

「担当医として、どう対応するのが正しいでしょうか」

 浅野は何も言わなかった。

 しばらく、早苗の顔を見ていた。

「一般論として」と早苗は付け加えた。

「わかった」と浅野は言った。

 それが一般論でないことは、たぶん浅野にはわかっていた。

 わかった上で、そう言った。

「法律の話をするか、人間の話をするか、どっちがしたい」

 早苗は少し止まった。

「両方」

「そうか」浅野は背もたれに身をあずけた。

「じゃあ法律から始めよう」


「日本では、積極的安楽死は違法だ」と浅野は言った。

「医師が薬物を投与して、直接、患者の死をもたらす行為は、殺人罪あるいは嘱託殺人罪にあたる可能性がある。これは患者が望んでいても変わらない。同意があっても、違法は違法だ」

「判例は」

「いくつかある。有名なのは東海大学病院事件と、川崎協同病院事件だ。どちらも医師が起訴された。東海大の事件では、安楽死が許容されるための要件が示された。耐えられない肉体的苦痛があること、死が避けられない末期状態であること、患者本人の意思表示があること、そして他の手段では苦痛の緩和ができないこと。この四つが揃っていれば、違法性が阻却される可能性がある、という判断だった」


「可能性がある、という言い方ですね」

「そうだ。確実に許されるとは言っていない。あくまで裁判所が示した要件であって、法律として明文化されているわけじゃない。厚生労働省のガイドラインも、患者の意思を尊重した終末期の医療については一定の方向性を示しているが、積極的安楽死については明確な答えを出していない。現状、この国では、積極的安楽死をめぐる法律は、グレーゾーンにあると言っていい」


 早苗は聞きながら、それを自分の言葉に置き換えていた。

 グレーゾーン。

 曖昧な領域。

 法律として禁じられているわけではないが、許されているとも言えない。


「消極的安楽死は」

「延命治療を行わない、あるいは中止する行為、いわゆる尊厳死については、判例の積み重ねで一定の許容範囲がある。患者本人の意思が明確であること、医療チームで十分に検討されていること、その上での判断であれば、違法性は低い。君たちが日々やっていることの一部は、そこに含まれる」

「モルヒネの投与量の調整も」

「二重効果の問題だな」浅野は少し間を置いた。

「苦痛を取り除くための適切な投与は、たとえ結果として生命を縮めることがあっても、それは治療行為だ。目的が苦痛緩和であれば、法的にも倫理的にも許容される。ただし、苦痛緩和の目的を逸脱した量を投与すれば、それは別の話になる」


 早苗は頷いた。

 鎮痛剤の計算をしたとき、自分が向き合ったことを、浅野は正確に言語化した。

「ここまでが法律の話だ」と浅野は言った。

「次は人間の話をするか」

「はい」


 浅野は窓の外を見た。

 落葉した枝が、風に揺れている。

「患者が安楽死を望むとき、その意思が本当に自由な意思かどうかを確認するのは、非常に難しい」と浅野は言った。

「痛みの中にいる人間は、正常な判断ができないことがある。うつ状態であれば、なおさらだ。あるいは、家族や周囲に迷惑をかけたくないという気持ちから、死を望む場合がある。それは本人の自由意思ではなく、追い詰められた結果かもしれない」


「でも」と早苗は言った。

「患者によっては、そのどれにも当てはまらない場合があります」

「そうだ」と浅野は静かに言った。

「痛みは緩和されている。うつでもない。家族への遠慮でもない。ただ、自分の死に方を、自分で決めたいと思っている。そういう患者がいる」

「その場合は」

 浅野は早苗を見た。

「選ぶのは君だ」


 早苗は返す言葉を探した。

 見つからなかった。

「先生は」と早苗は言った。

「先生自身は、そういう患者に対して、どう思いますか」

 浅野は少しの間、黙った。


 窓の外の枝が揺れている。

 葉がまた一枚、落ちた。

「私が言えることは一つだけだ」と浅野は言った。

「医師として正しい選択と、人間として正しい選択が、一致するとは限らない。その二つが一致しないとき、何を選ぶかは、その人間が決めることだ。私には決められない」

「それは、答えを出さない、ということですか」

「答えを出せない、ということだ」

 浅野は早苗をまっすぐ見た。

「同じようで、違う」


 浅野の部屋を出た後、早苗は廊下をゆっくりと歩いた。

 法律の話は、整理されていた。

 積極的安楽死は違法。

 ただし要件によっては違法性が阻却される可能性がある。

 消極的安楽死は、一定の条件下で許容される。

 モルヒネの投与は、目的の範囲内であれば治療行為だ。

 知っていたことばかりだった。

 確認になっただけだった。

 浅野が言ったことの中で、早苗の中に刺さったのは、法律の部分ではなかった。

 医師として正しい選択と、人間として正しい選択が、一致するとは限らない。

 早苗はその言葉を、頭の中で繰り返した。

 一致するとは限らない。

 そのとき、何を選ぶかは、その人間が決めることだ。

「その人間」というのは、自分のことだった。

 選ぶのは、自分だ。


 めぐみとすれ違ったのは、ナースステーションの前だった。

「先生」とめぐみが言った。

「最近、顔色悪いですよ」

 早苗は立ち止まった。

「そう?」

「なんか、疲れてる感じがします。ちゃんと休めてますか」

「休めてます」と早苗は言って、笑った。

 めぐみは少し心配そうな顔をしたが、それ以上は言わなかった。

「無理しないでくださいね」と言って、行ってしまった。

 早苗は笑顔を、少し保った。

 廊下に誰もいなくなってから、表情を戻した。

 作り笑いだった。

 気づいていた。

 めぐみも、たぶん気づいていた。


 その夜、早苗は自宅の机に向かって、論文を読んだ。

 医学倫理の論文だった。

 検索して、いくつかヒットしたものを端から開いていった。

「終末期医療における自律尊重の原則」

「安楽死をめぐる倫理的考察」

「医師の良心と法律の間」。

 タイトルだけ見ると、今の自分が抱えていることを、そのまま並べたような論文が、世の中にはたくさんある、と早苗は思った。


 読み始めた。

 論文の言葉は、整然としていた。

 前提を置き、論理を組み立て、結論を導く。

 自律尊重の原則、とは何か。

 患者が自分の医療行為を決定する権利は、生命の尊厳という原則と、どこで衝突するか。

 その衝突をどう調停するか。

 様々な立場からの論考が、丁寧な言葉で並んでいた。

 読みながら、早苗はある論文の一節で手が止まった。


 自律尊重の原則は、患者が「十分な情報を与えられた上で、自発的に、判断能力を持って」意思決定した場合にのみ適用される。

 痛みや恐怖、あるいは抑うつ状態にある患者の意思は、真の自律的意思とは言えない可能性がある。

 したがって、安楽死の要請が真に自律的なものかどうかを判断する責任は、医療者側にある——。


 早苗はその箇所を、もう一度読んだ。

 判断する責任は、医療者側にある。


 それは正しいことだった。

 論理として、正しかった。

 患者が苦しみの中にいるとき、その苦しみが判断を歪めている可能性を考慮するのは、医療者の義務だ。

 亮平の場合も、モルヒネによって疼痛はある程度コントロールされているが、神経障害性疼痛は波がある。

 痛みのピーク時に出した意思と、落ち着いているときの意思が、同じとは限らない。


 論文の言葉は、美しく整っていた。

 ただ、亮平の顔が浮かぶと、その言葉が、急に遠くなった。

 あの屋上での声を思い出した。

 感情的でなく、静かで、準備されたような言葉。

「君の手で終わらせてほしい」。

 あれは痛みのピーク時の言葉ではなかった。

 穏やかな午後の、風の中で、亮平は言った。

 泣いていなかった。

 取り乱していなかった。

 ただ、確かめるように、言った。

 あれを、判断能力を欠いた意思表示と言えるか。

 早苗には、言えなかった。

 論文の言葉は、机上では正しかった。

 ただ、それを亮平に当てはめようとすると、どこかで歪んだ。

 現実というものは、理論の枠に、きれいには収まらなかった。


 早苗は論文を閉じた。

 机の上に、読みかけの論文が積まれていた。

「医師の良心と法律の間」というタイトルの論文が、一番上にあった。

 早苗はそのタイトルを見て、少し止まった。

 良心と法律の間。

 自分は今、ちょうどその間に立っている、と思った。

 どちらの側にも、踏み出せないまま。


 翌日の朝、早苗は亮平の病室に回診に行った。

 亮平は起きていた。

 窓の外を見ていた。

 外の木々は、もうほとんど葉を落としていた。

 枝だけになった木が、朝の光の中に黒く立っている。

「今日の痛みは」と早苗は言った。

「三ぐらい。昨夜は穏やかだった」

「眠れましたか」

「少し」


 問診を進めながら、早苗は決めていたことを、言おうとしていた。

「面談を設けたいと思っています」と早苗は言った。

「先日の屋上でのお話について、改めて」

 亮平はこちらを向いた。

 早苗の顔を見た。

「ちゃんと話したい、ということ?」

「はい」


 亮平は少しの間、何も言わなかった。

 窓の外の枝が、風に揺れている。

「場所は屋上がいい」と亮平は言った。

 早苗は一拍置いた。

「寒くなりましたが」

「それでも」

「わかりました」と早苗は言った。

「日程を調整します」

 亮平は頷いた。

 それから、また窓の外に目を向けた。

 葉のない枝が、空を区切るように伸びている。

 その向こうに、十月の空が広がっていた。

 高く、薄く、冬に近い色をしていた。

 早苗は病室を出た。


 廊下を歩きながら、浅野の言葉がまた頭の中で鳴った。

 選ぶのは君だ。

 選ぶのは、自分だ。

 ただ、何を選ぶのかは、まだわからなかった。

 わからないまま、次の病室のドアを開けた。

 今日も、病棟の仕事が続いていく。

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