第五話 「屋上の会話(一)」
十月の中旬になると、風が変わった。
九月の風はまだ夏の名残を引きずっていた。
湿度が残って、日差しが当たると温かかった。
それが十月に入ると、風が乾いてくる。
肌に触れた瞬間に、体温を奪う感触がある。
廊下の窓を開けていると、夕方から急に冷えてくる。
早苗はこの季節の変わり目を、毎年、白衣の下に着るものを一枚増やすことで確認する。
銀杏並木は、今週に入って完全に黄色くなった。
朝、病棟の窓から見ると、並木全体が光を含んでいるように見える。
その黄色が、病院の白い外壁に反射して、廊下まで淡く染まることがある。
きれいだ、と早苗は思う。
思いながら、すぐに次の仕事に目を向ける。
亮平がその申し出をしたのは、火曜日の朝の回診のときだった。
「屋上に連れて行ってもらえないか」
早苗は問診票から顔を上げた。
「屋上、ですか」
「上から見たい。病院の外が」
車椅子での移動は、今は介助が必要だった。
エレベーターで屋上階まで上がれるが、屋上のドアは重い。
一人ではまず無理だった。
「スケジュールを確認します。午後の処置が終わってからであれば」
「それでいい」
めぐみに話すと、「一緒に行きます」と二つ返事だった。
「津田さん、最近ずっと病室にいるから、気分転換になりますね」と言った。
午後の三時過ぎ、三人で屋上に上がった。
屋上は広かった。
病院の建物の上に、フラットなコンクリートの床が広がっている。
排気口やダクトが点在していて、景観としては美しくはない。
ただ、四方が開けている。
空が広い。
亮平は車椅子のまま、めぐみに押されてフェンスの近くまで行った。
早苗はその後ろを歩いた。
十月の風が、屋上では遮るものがないぶん、直接当たった。
早苗は白衣の前を合わせた。
亮平は薄いブランケットを膝に掛けていた。
その端が、風にはためいた。
「見えますか」とめぐみが言った。
「見える」と亮平は言った。
東の方角に、高層ビルの輪郭が並んでいる。
西に傾いた午後の光を受けて、ガラスの外壁が光っている。
空は高く、雲が薄く流れていた。
遠くに、山の稜線がかすかに見えた。
亮平はしばらく、ただ眺めていた。
何も言わなかった。
早苗もめぐみも、何も言わなかった。
風の音と、排気口から漏れてくる低い機械音だけがあった。
「先生、私、ちょっと下に戻ってもいいですか」とめぐみが早苗に言った。
「鈴木さんのことが少し気になって」
「鈴木さん」は別の患者だった。
今朝から状態が安定しているとは聞いていたが、めぐみの目には何か引っかかるものがあったのかもしれない。
「わかりました。私が残ります」
「すぐ戻ります」とめぐみは亮平に言った。
「何かあればナースコールを」
「うん。ありがとう」
めぐみが屋上のドアを抜けて、消えた。
ドアが閉まる音がした。
屋上に二人だけになった。
風が吹いた。
亮平のブランケットの端がまた揺れた。
早苗は車椅子の少し後ろに立ったまま、同じ方向を見ていた。
ビルの輪郭、空の青、流れる雲。
沈黙は、不自然ではなかった。
二人でいるときの沈黙には、昔から、圧迫感がなかった。
黙っていることが、会話の一部だった。
どのくらい経ったか、亮平が言った。
「早苗」
「はい」
「君の手で終わらせてほしい」
風が、また吹いた。
早苗は動かなかった。
息が、一拍、止まった。
止まって、また動いた。
風がブランケットを揺らした。
ビルのガラスが光を反射している。
空は変わらず、高く、青かった。
何も変わっていない。
今の言葉が、この空気の中に落ちる前と、後で、景色は何も変わっていない。
それなのに、早苗の中で何かが、鋭く、揺れた。
早苗は返事をしなかった。
すべきことは明確だった。
医師として、その言葉を受け取ってはいけない。
受け取った瞬間に、自分が何者であるかが、崩れる。
早苗は十五年、この仕事をしてきた。
患者の死に何度も立ち会ってきた。
その死は、自然の経過か、あるいは疾患の帰結として訪れるものだった。
自分の手で、ではない。
法律がある。
医師の倫理がある。
積極的安楽死は、日本では違法だ。
医師が薬物を用いて直接的に死をもたらすことは、たとえ患者が望んでいても、許されない。
早苗はそれを知っている。
知った上でこの仕事をしている。
頭の中で、言葉が整然と並んだ。
反論の言葉が、論理の言葉が、医師の言葉が。
それは迷いなく出てきた。
ただ、それを声に出す前に、別の何かが、胸の奥で動いた。
亮平の声だった。
「君の手で」という言い方が、頭の中で繰り返された。
「医者に」ではなく、「君に」だった。
「早苗に」だった。
十二年前、別れた男が、難病を抱えてここに来た。
自分を指名して、自分の病院を探して、転院してきた。
そして今、自分だけに、この言葉を言った。
早苗としての揺れと、医師としての拒絶が、同時に、胸の中を走った。
二つは別々のものではなく、同じ場所にあった。
引き裂かれる、という感覚を、早苗は初めて、身体で理解した。
沈黙が続いた。
亮平は何も言わなかった。
急かさなかった。
早苗が答えるのを待っているのか、答えなくてもいいと思っているのか、その区別がつかなかった。
ただ、正面を向いたまま、遠くのビルの輪郭を見ていた。
早苗は亮平の後ろに立ったまま、その横顔を見た。
痩せた頬。
薄くなった首筋。
ブランケットの上に置かれた手が、かすかに震えている。
三ヶ月前まで、カメラを持って映像を撮っていた手が。
川の源流から河口まで追う映画を撮りたかった、と後輩に話していた人間が、今、車椅子の上にいる。
早苗はそれを見た。
見て、目を逸らした。
逸らして、また見た。
言わなければならないことがあった。
「聞こえなかったふりをします」
自分の声が、風の中に出た。
想定していた言葉ではなかった。
「それはできません」でも「法律上、許されません」でもなく、「聞こえなかったふりをします」という言葉が、出た。
亮平が、ゆっくりとこちらを向いた。
早苗の顔を見た。
早苗も亮平の顔を見た。
何かを言おうとして、早苗は止まった。
続きが、出てこなかった。
「聞こえなかったふり」の意味を、自分でも、まだ把握できていなかった。
拒絶なのか、保留なのか、あるいはその両方なのか。
亮平はしばらく早苗の顔を見ていた。
それから、前に向き直った。
「そうか」と言った。
空を見上げた。
首を少し後ろに傾けて、高い秋の空を。
それ以上、何も言わなかった。
早苗も何も言えなかった。
風が吹くたびに、ブランケットの端が揺れた。
ビルのガラスが西日を受けて、橙色に変わり始めた。
空の青が、少しずつ深くなっていく。
早苗は亮平の後ろに立ったまま、同じ景色を見ていた。
「聞こえなかったふり」という言葉の意味を、頭の中で探し続けていた。
それは逃げだった。
拒絶するだけの言葉を持てなかった、という意味では、逃げだった。
でも、受け入れたわけでもなかった。
受け入れることは、できない。
できないことは、わかっている。
ではなぜ、「聞こえなかったふり」という言葉が出たのか。
答えが見つからないまま、風が吹いた。
亮平の白髪交じりの髪が、風に乱れた。
亮平は手を上げてそれを直そうとして、震える手では間に合わなかった。
髪が、また風に揺れた。
早苗は一歩前に出て、亮平の髪を、指先で軽く直した。
ほんの一秒のことだった。
亮平は動かなかった。
早苗も、何も言わなかった。
早苗は元の位置に戻った。
そのとき、屋上のドアが開いた。
「お待たせしました」とめぐみが言った。
明るい声だった。
「鈴木さん、大丈夫でした。そろそろ戻りましょうか。冷えてきましたし」
「うん」と亮平が言った。
いつもの声だった。
めぐみが車椅子を押し始めた。
早苗はその後ろを歩いた。
屋上のドアを抜けるとき、早苗は一度だけ振り返った。
フェンスの向こうに、夕暮れが広がっていた。
橙と青が混ざりあって、境界が溶けている。
遠くのビルの輪郭が、その色の中に沈んでいく。
きれいだ、と思った。
思いながら、ドアを閉めた。
その夜、早苗は自宅のソファに座って、何もしなかった。
テレビもつけなかった。
本も開かなかった。
ベランダの植物に水をやることも、今夜は忘れなかったが、立ち上がれなかった。
「君の手で終わらせてほしい」という声が、頭の中で、何度も繰り返された。
静かな声だった。
感情的でなかった。
泣いていなかった。
懇願するというより、確認するような、あるいは申し送りをするような、そういう声だった。
それがなぜか、感情の爆発よりも、ずっと深く刺さった。
感情的な言葉は、受け取り方がわかる。
「泣かないでください」と言えばいい。
「気持ちはわかります」と言えばいい。
でも亮平の言葉には、そういう受け取り方ができる余地がなかった。
静かで、論理的で、準備された言葉だった。
いつから、考えていたのだろう、と早苗は思った。
転院してくる前から、かもしれない。
早苗を指名したときから、すでに、この言葉を持っていたのかもしれない。
そう思うと、八月の転院当日の亮平の笑顔が、違う意味を持って見えてきた。
「やっぱり、早苗か」と笑ったあの顔が。
早苗は目を閉じた。
医師として、できないことがある。
それは変わらない。
法律があり、倫理があり、自分が医師である限り、それを越えることはできない。
越えてはいけない。
でも「聞こえなかったふり」と言った。
その言葉の意味を、早苗はまだ、自分でも理解できていなかった。
夜が深くなっていった。
ベランダの植物は、今夜も水をもらえなかった。




