第四話 「同意書一枚」
十月に入ると、銀杏が色づき始めた。
病棟の窓から見える並木が、緑から黄へ、少しずつ変わっていく。
その変化は一日では気づかない。
三日、四日と経つうちに、いつの間にか色が違っている。
早苗は毎朝、その並木を確認するようになっていた。
意識してそうしているのではなく、気づくと目が向いていた。
九月の一ヶ月で、亮平の状態は変わった。
モルヒネへの移行は、疼痛コントロールという点では効果があった。
夜間のピーク時の痛みは和らいで、眠れる時間が少し長くなったとめぐみの記録にある。
ただ、それと引き換えるように、他の症状が進んだ。
手指の震えが顕著になった。
箸を使うことができなくなり、スプーンも一人では難しくなった。
食事はめぐみか他の看護師が介助している。
嚥下の状態もさらに低下して、とろみをつけた流動食が中心になった。
会話の途中で、言葉が止まることが出てきた。
最初にそれに気づいたのは、早苗ではなくめぐみだった。
「津田さん、話しているとき、ときどき止まるんです」と報告があったのは九月の末だった。「言葉を探しているというより、出てこない感じで」と、めぐみは少し声を落として言った。
早苗は神経症状の評価を改めて行った。
構音障害の初期段階だった。
今後、言葉がさらに出にくくなる可能性がある。
進行を止める手段はない。
告知面談を設けることにした。
面談室は病棟の端にある。
四畳ほどの小さな部屋で、丸テーブルと椅子が四脚置いてある。
窓が一つ、外の駐車場に向いている。
早苗はこの部屋で、これまでに何十回も話をしてきた。
余命の告知、治療方針の変更、家族への説明。
この部屋に入るたびに、早苗は白衣の前を確認する癖がついていた。
乱れがないかを確認する。
それは、自分が「医師」であることを確かめる動作だった。
亮平は車椅子で連れてこられた。
この一週間で、廊下の歩行が難しくなっていた。
めぐみが車椅子を押してきて、テーブルの前に止めた。
「後でお呼びしますね」とめぐみは言って、ドアを閉めた。
部屋に二人だけになった。
窓の外に、駐車場の向こうの銀杏が見えた。
今日は風があって、黄色くなりかけた葉が揺れている。
「よろしくお願いします」と早苗は言った。
「うん」と亮平は言った。
早苗はテーブルの上に書類を並べた。
現在の病状の評価シート、今後の治療方針に関する説明資料、同意書。
それぞれA4の紙が、白くテーブルに並んでいる。
「今日は、現在の病状と、今後の見通しについて改めてお話しします。それから、これからの治療方針について確認させてください」
「わかった」
早苗は話し始めた。
多系統萎縮症の現在のステージ。
運動機能、嚥下機能、構音機能のそれぞれについて、今どの段階にあるか。
今後どのように進行が予想されるか。
それぞれを、できるだけ平明な言葉で説明した。
医療用語を避けながら、しかし曖昧にはしない。
数字を使いながら、しかし数字だけにはしない。
それが早苗の面談のやり方だった。
亮平は黙って聞いていた。
書類に目を落としたり、早苗の顔を見たり、窓の外を見たり。
表情は動かなかった。
問診のときと同じ、静かに受け取る顔だった。
「運動機能については」と早苗は続けた。
「今後、上肢の動作がさらに困難になっていく可能性があります。下肢については、すでに自立歩行が難しい状況ですが、上肢の機能が落ちると、車椅子の自己操作も難しくなります」
「手が使えなくなるのか」
「その可能性があります」
亮平は手元を見た。
テーブルの上に置かれた自分の手を、少しの間、見ていた。
右手の指先が、かすかに震えている。
早苗はそれを見た。
見ながら、説明を続けた。
「構音機能については、今後言葉が出にくくなることが予想されます。コミュニケーション手段として、文字盤や機器の使用も選択肢として準備しておくことをお勧めします」
「声が出なくなる」
「出にくくなる、という段階が来る可能性があります」
亮平はそれを聞いて、少し間を置いた。
窓の外を見た。
風で銀杏の葉が揺れている。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
「余命は」と亮平が言った。
「個人差があります。病状の進行速度によって大きく異なります」
「目安として」
早苗はそこで一拍置いた。
面談で余命を告げるとき、早苗はいつも同じことをする。
一拍置いて、息を整えて、相手の目を見る。
それから話す。
「現在の進行速度を考慮すると、一年から一年半が一つの目安になります。ただし、これはあくまで目安です。それより長くなることも、短くなることもあります」
亮平は早苗の目を見ていた。
「そうか」と言った。
それだけだった。
驚かなかった。
泣かなかった。
「そうか」と言って、また書類に目を落とした。
それを見ながら、早苗は胸の奥に何かが沈むのを感じた。
驚かないことの重さ、というものがある。
すでに知っていた、あるいは覚悟していた、ということの重さが、驚きや取り乱しよりも、ずっと深いところに落ちる。
治療方針の説明に移った。
疼痛コントロールの継続。
嚥下機能の低下に伴う栄養管理の見直し。
今後、経管栄養が必要になった場合の対応。
そして、心肺停止時の蘇生処置についての確認。
「蘇生処置について、ご本人の意思を確認させてください」と早苗は言った。
「心臓が止まった場合、蘇生を行うかどうかです」
亮平はしばらく書類を見ていた。
「しなくていい」と言った。
迷いのない声だった。
「その意思は、書面に残していただくことになります」
「うん」
早苗は同意書をテーブルの上に置いた。
A4の紙一枚。
印刷された文字が並んでいる。
病院名、患者氏名、診断名、治療方針に関する同意事項。
蘇生処置についての選択欄。
署名欄。
亮平はその紙を手に取った。
震える手で、ゆっくりと。
しばらく、読んでいた。
「これ、俺のことだよな」と亮平は言った。
ぽつり、とした言い方だった。
独り言のような、でも確かに早苗に向けられた言葉だった。
「はい」と早苗は言った。
亮平は紙を見たまま、何も言わなかった。
早苗も何も言わなかった。
面談室の外で、廊下を歩く足音が通り過ぎた。
遠く、どこかで電話が鳴った。
この部屋だけが、時間の流れが少し違う気がした。
「名前と、生年月日と、いくつか書くんだな」
「はい。署名と、日付をお願いします」
「字が、うまく書けないかもしれない」
亮平は震える手を見た。
早苗は「構いません」と言った。
「書けた字で結構です」
亮平はゆっくりとペンを取った。
早苗は書類を眺めるふりをしながら、その手を見ないようにした。
見てはいけない気がした。
ペンを走らせる音がした。
ゆっくりとした、少し不均一な音だった。
しばらくして、音が止まった。
亮平が同意書をテーブルに戻した。
署名欄に、崩れた文字で「津田亮平」と書いてある。
日付が、その横に書かれている。
早苗はその紙を受け取った。
受け取った瞬間に、この一枚の紙が持つ意味を、改めて思った。
津田亮平という人間の、これから先の医療方針を、形式として決定する紙。
延命処置を望まない、という意思を、公式に記録する紙。
病院という組織が、一人の人間の最期の希望を管理するための書式。
それは必要な手続きだった。
患者の意思を守るために、必要な書式だった。
それでも、亮平の崩れた筆跡を目に入れたとき、早苗の中で何かが、静かに、痛んだ。
「早苗は」と亮平が言った。
早苗は顔を上げた。
「今、俺を医者として見てるか。それとも」
続きは言わなかった。
言わなくても、早苗にはわかった。
「それとも」の後に何が来るかを。
「医師として見ています」と早苗は言った。
即座に、迷いなく。
亮平はその答えを聞いた。
一拍あって、笑った。
声のない、静かな笑いだった。
唇の端が、わずかに上がった。
目は笑っていなかった。
笑っているのに、どこか遠くを見ているような目だった。
「そっか」と亮平は言った。
その笑いが、早苗には、ひどく悲しかった。
否定されたわけではない。
傷つけられたわけでもない。
ただ、「そっか」と言って笑った亮平の顔が、この部屋の空気の中に、しばらく残った。
「今日の説明は以上です。何か質問はありますか」
「ない」
「わかりました。何かあればいつでも声をかけてください」
早苗は書類をまとめた。
同意書を封筒に入れた。
立ち上がって、ドアに向かった。
「早苗」と亮平が言った。
振り返ると、亮平は窓の外を見ていた。
銀杏の葉が、風に揺れている。
「ありがとう」
何に対するありがとう、かは言わなかった。
早苗も聞かなかった。
「また明日来ます」と言って、ドアを開けた。
廊下に出て、めぐみを呼ぶために歩きながら、早苗は同意書の入った封筒を持つ手に、少し力が入っていることに気づいた。
必要な手続きだった。
患者の意思を守るために、必要なことをした。
それだけのことだ。
そう思いながら、面談室のドアを振り返った。
薄いドア一枚の向こうに、亮平がいる。
崩れた筆跡でサインをした同意書が、今、自分の手の中にある。
その重さは、紙一枚の重さでしかないはずだった。
それなのに、封筒を持つ手が、少し、重かった。
病棟の廊下には、秋の午後の光が差し込んでいた。
銀杏並木の影が、窓に細く落ちている。
風が吹くたびに、その影が揺れた。




