第三話 「鎮痛剤の計算」
九月に入ると、空が変わった。
夏の空は白みがかっている。
熱気が大気に溶け込んで、青さが濁る。
それが九月になると、突然、透き通る。
高く、深く、どこまでも吸い込まれそうな青になる。
早苗は毎年、その変化を病棟の窓から確認する。
今年も、窓の外の空はきれいだった。
ただ、病棟の中では、季節の移ろいは別の形で届く。
患者の身体が、少しずつ変わっていく。
亮平の疼痛が強くなってきたのは、九月の最初の週だった。
多系統萎縮症の進行に伴う神経障害性疼痛は、通常の鎮痛剤では十分にコントロールできないことがある。
早苗はすでにそれを想定していたが、実際に数値が上がってくると、処方の見直しが必要になった。
モルヒネへの移行を、検討し始めた。
モルヒネは、使い方によっては呼吸を抑制する。
疼痛を緩和しながら、同時に生命を縮める可能性を孕んでいる。
医師はそれを「二重効果」と呼ぶ。
苦痛を取り除くという善意の行為が、死期を早めるという結果を招くことがある。
その二つは、一枚の紙の表と裏だ。
緩和ケア医として、早苗はそれを理解した上でこの仕事をしている。
理解しているつもりだった。
亮平の処方箋を前にして、その「つもり」が少し、揺れた。
問診は午前の回診の後に、時間を改めて行った。
疼痛の詳細な状態を把握するためだった。
亮平はベッドに横たわっていた。
上半身を少し起こしている。
窓の外に九月の空が広がっている。
病室の中には、朝の光が斜めに差し込んでいた。
「痛みの性質を確認させてください」と早苗は言った。
「刺すような痛みですか、それともじんじんと広がる感じですか」
「両方ある。波がある感じで、刺すのが来て、その後に広がる」
「どのくらいの間隔で」
「夜は一時間に一回ぐらい。昼は二、三時間に一回。でも最近は昼間も短くなってきた」
「今の鎮痛剤を飲んでからどのくらいで効いてきますか」
「三十分ぐらい。でも完全には取れない。底に残る感じがある」
早苗はメモを取りながら、次の質問を探した。
底に残る感じ、という言い方を、亮平はよくする。
痛みの説明が、映像的だった。
ディレクターとして映像を作ってきた人間の語彙なのかもしれない、と早苗は思った。
「夜間の睡眠への影響は」
「痛みで起きる。二時間続けて眠れない」
「それは今週に入ってからですか」
「先週の後半から」
早苗は手を止めた。
「先週の後半」というのは、カルテの記録と一致しない。
「先週の後半から強くなったのに、昨日の問診では言わなかった」
亮平は少しの間、黙っていた。
「言いそびれた」
「言いそびれた」
「うん」
それ以上の説明はなかった。
言いそびれた、ではなく、言わなかったのだ、と早苗は思った。
なぜかは聞かなかった。
聞いて答えが返ってくるとも思わなかった。
「今後、痛みが強くなった場合は、モルヒネへの移行を検討します」と早苗は言った。
「効果は今より強くなります。ただ、副作用として眠気が出やすくなる。便秘も起きやすい。そのあたりは事前に説明しておきます」
「わかった」
「他に今気になる症状は」
少し間があった。
「早苗は昔から怖いものないのか」
早苗は顔を上げた。
亮平は天井を見ていた。
問診への返答ではなく、独り言に近い言い方だった。
「怖いもの」
「うん。何かあるのか、と思って。昔から動じなかったから」
「あるよ」と早苗は言った。
思ったより早く、言葉が出た。
亮平がこちらを向いた。
「何が」
早苗はペンを持ったまま、少し止まった。
「……続きはまた」
亮平はそれを聞いて、小さく笑った。
「逃げた」
「問診中です」
「そうだな」
亮平はまた天井を向いた。
早苗は書類に視線を戻した。
心臓が、少し、速くなっていた。
それに気づいて、気づかないふりをした。
「他に気になる症状がなければ、今日はここまでにします」
「ない」
「わかりました。モルヒネへの移行については、今日の午後に正式にお話しします」
「うん」
病室を出ながら、早苗は「何が怖いのか」を頭の中で探した。
答えは、ある。
ただ、それを言語にするには、今はまだ、時間が足りなかった。
午後の二時頃、亮平の病室に面会者が来た。
めぐみから報告を受けたとき、早苗は医局で書類を整理していた。
「仕事関係の方だと思います。男性が二人」とめぐみは言った。
「特に問題はなさそうですが、一応ご報告まで」
「わかりました」と早苗は言った。
三十分ほどして、早苗は次の処置のために病棟に戻った。
亮平の病室の前を通ると、ドアが少し開いていた。
中から、声が聞こえた。
通り過ぎようとして、足が止まった。
「最後に一本、撮りたかったんだよな」という亮平の声がした。
早苗はドアの横で、動けなくなった。
「何の映画?」と、男の声がした。
若い声だった。
「川の記録。ずっと撮りたかった川があって。源流から河口まで、一年かけて追うやつ」
「撮れるんじゃないですか、まだ」
亮平は少しの間、黙った。
「カメラ持てなくなってきたから」
「アシスタントつければ」
「俺の映画は俺が撮るんだよ。それがなくなったら、違うものになる」
廊下に、空調の音だけが流れた。
「でも、この病棟の記録は撮らせてもらえそうだから」と亮平は言った。
声が少し、軽くなった。
「小さいカメラで。担当の先生が申請してくれてる」
「先生、融通利くんですね」
「昔の知り合いなんだよ」と亮平は言った。
「だから、余計なことも言える」
早苗は廊下を離れた。
そっと、音を立てないように。
胸の中に、何かが刺さったような感覚があった。
刺さった、というより、触れた、という感じだった。
鋭くはない。
ただ、確かにそこにある。
最後に一本、撮りたかった川がある。
カメラを持てなくなってきた。
俺の映画は俺が撮る。
その言葉の積み重なりを、早苗は頭の中で反芻しながら、廊下を歩いた。
亮平は自分の病状を、ちゃんとわかっている。
わかった上で、何ができて、何ができなくなったかを、淡々と整理している。
その整理の仕方が、問診の「言いそびれた」と、どこかで繋がっている気がした。
痛みが強くなっていることを、一週間近く、黙っていた。
それは、早苗に言いたくなかったのか。
それとも、自分の中でまだ整理していたのか。
どちらなのか、早苗にはわからなかった。
面会者が帰った後、早苗はモルヒネ移行の説明のために病室を訪れた。
亮平は窓の外を見ていた。
九月の午後の光の中に、欅の葉が揺れている。
葉の端が、ほんのわずか、黄みがかってきた気がした。
「先ほどの方は」と早苗は聞いた。
「昔の仕事仲間。後輩二人」亮平はこちらを向いた。
「廊下にいた?」
早苗は少し止まった。
「通りかかっただけです」
「そうか」亮平は笑わなかった。
「聞こえたならそれでいい。隠すことじゃないから」
早苗は丸椅子に座った。
「モルヒネの件を説明します」
「うん」
早苗は説明を始めた。
モルヒネの作用、投与量の調整方法、副作用の種類と対処法。
緩和ケアにおける鎮痛剤の位置付け。
苦痛を取り除くことが目的であり、それが最優先であること。
説明しながら、早苗は言葉を選んでいた。
医師として当然説明すべきことを、当然の語り口で話している。
ただ、頭の中の一部で、別のことを考えていた。
モルヒネの投与量には、上限の目安がある。
苦痛を取り除くための量と、生命を縮めるかもしれない量の間に、明確な線はない。
線がないから、医師は判断する。
患者の状態を見ながら、その都度、調整する。
その判断の積み重ねが、緩和ケアという仕事だ。
それを、早苗は十五年、続けてきた。
亮平の処方箋を前にすると、その十五年が、少し遠く感じた。
「質問はありますか」と早苗は聞いた。
「一つだけ」と亮平は言った。
「量を増やすことで、俺が眠ったまま目を覚まさないことはあるか」
病室が、静かになった。
空調の音が、遠く聞こえた。
「可能性として、ゼロとは言えません」と早苗は言った。
「ただ、私が行う調整は、苦痛の緩和が目的です。その範囲で慎重に行います」
「苦痛の緩和が目的、か」
亮平は繰り返した。
反論でも皮肉でもなく、ただ、言葉を確かめるように。
「うん、わかった」と彼は言った。
「頼む」
早苗は頷いて、立ち上がった。
「今夜から開始します。何かあればすぐに知らせてください」
「早苗」
ドアに向かいかけて、早苗は振り返った。
「さっきの質問。答えてくれてよかった」
早苗は何も言わなかった。
一拍置いて、「また明日来ます」と言って、病室を出た。
その夜、早苗は当直室の机に向かって、亮平の処方計画を立てていた。
モルヒネの初期投与量。
増量の基準。
副作用への対処。
緊急時の対応。
一つひとつ、数字と手順を書き込んでいく。
それは早苗が何度もやってきた作業だった。
馴れた手順だった。
ただ、今夜は途中で何度か、ペンが止まった。
どこまでが治療で、どこからが——
その問いが、頭の隅に浮かんだ。
浮かんで、沈んだ。
また浮かんだ。
緩和ケアの世界には「二重効果の原則」という考え方がある。
行為の目的が善であれば、その行為が悪い結果を招いたとしても、倫理的に許容されるという論理だ。
苦痛を取り除く、という善意の行為が、死期を早める、という結果を招いても——目的が正しければ、許される。
早苗は学生の頃からそれを知っていた。
知識として、理論として。
知識と理論は、処方箋を書く手の震えを、止めてはくれない。
亮平の初期投与量を書き込んで、早苗はしばらくその数字を見た。
この数字が、亮平の夜の痛みを取り除く。
眠れるようになる。
底に残る感じ、が薄れる。
それは間違いのないことだった。
それだけのことだ、と早苗は思った。
思いながら、もう一度だけ、数字を確認した。
病棟の廊下では、深夜の静けさが広がっていた。
どこかの病室で、低く、誰かが寝息を立てている音がした。




