第二話 「無菌室の向こう側」
八月の終わりは、昼と夜で空気が違う。
日中はまだ夏の熱気が病棟の廊下に滞留しているのに、夕方を過ぎると窓から入る風に、秋の気配が一筋混じっている。
早苗はその境目を、毎年この時期に感じる。
今年も同じだった。
ただ、今年は少し、その感覚が鋭かった。
転院から一週間が経っていた。
この一週間、早苗は亮平を「津田さん」と呼び続けた。
問診票に書かれた名前として、カルテに記録された患者として、そう呼んだ。
亮平のほうは「桐島先生」とは一度も言わなかった。
かといって「早苗」と呼ぶわけでもなく、用があるときは「先生」とだけ言った。
二人の間に、ゆるやかな、しかし確かな距離が生まれていた。
早苗はその距離を、意識的に保とうとしていた。
早苗は午前の回診を亮平の病室から始めることにしていた。
意味はない、と自分に言い聞かせながら、毎朝そうしていた。
病室に入ると、亮平はベッドを少し起こして、天井を見ていた。
朝の光が白いカーテン越しに差し込んでいる。
他の三床はまだ空のままで、病室には二人分の気配しかなかった。
「おはようございます」と早苗は言った。
「おはよう」と亮平は言った。
早苗は丸椅子を引いて座り、クリップボードを膝に置いた。
ペンのキャップを外す。いつも通りの動作だった。
「痛みはどのあたりですか」
「昨夜は腰が六ぐらい。今は四」
「昨夜のピーク時に、痛み止めは」
「使った。一時間ぐらいで少し楽になった」
「スケールで言うと、夜間のピークが——」
「早苗」
亮平が言った。
早苗は顔を上げた。
「そのしゃべり方、やめてくれないか」
笑っていた。
責めているのではなく、ただ、おかしそうに。
目の端に皺が寄っている。
その皺の入り方を、早苗は十二年前から知っていた。
「どのしゃべり方ですか」
「全部。スケールがどうとか、部位がどうとか、昨夜のピーク時がどうとか。そういう話し方」
「問診です」
「わかってる。でも俺、早苗に聞かれてるのか、担当医に聞かれてるのか、たまにわからなくなる」
早苗はペンを持ったまま、少し黙った。
窓の外で、遠く車の音がした。
「同じです」と言った。
「そうか」と亮平は言った。
笑いが少し、引いた。
「そうだな」
それ以上は続かなかった。
早苗はクリップボードに視線を戻して、問診を続けた。
声のトーンは変えなかった。
嚥下の状態を聞いた。
三日前より飲み込みにくさが増している、と亮平は言った。
固形物はほとんど食べられなくなってきた。
栄養士と相談して食事形態を変える必要がある。
早苗はそれをメモしながら、亮平の首筋を少し見た。
一週間で、また少し痩せた気がした。
「食欲自体は」
「ない。でも食べられないのとは別の話だから」
「どういう意味ですか」
「食べたいという気持ちはある。飲み込めないだけで」
早苗はペンを止めた。
その区別を、亮平は静かに言い切った。
食べたいのに食べられない。
その差異を、感情なく言葉にできる人間だと、早苗は思った。
あるいは、感情を言葉の形に変換するのが、この人はずっとそういう人間だった。
「栄養士に相談して、食べやすい形態を検討します」
「頼む」
「他に気になることは」
亮平はしばらく考えた。
「手が震えるようになってきた。細かい作業が難しい」
「いつ頃から」
「今週に入ってから。急に来た感じがする」
早苗はそれをメモした。
病状の進行として想定の範囲内だったが、亮平の口から聞くと、また少し、重さが違った。
映像ディレクターだという。手を使う仕事をしてきた人間が、その手の震えを報告している。
「わかりました。今日の午後、神経症状の確認をさせてください」
「うん」
早苗が立ち上がりかけたとき、亮平が言った。「一つ頼んでいいか」
「カメラを持ち込みたい」
亮平は言った。
「病棟の記録を撮りたくて」
早苗はすぐには答えなかった。
丸椅子に座り直して、亮平を見た。
「撮影対象は」
「廊下とか、窓とか、光の入り方とか。人は撮らない。少なくとも意図的には。他の患者さんが映り込まないようにはするけど、廊下を撮ったらどこかに人影が入るかもしれない。それは正直に言っておく」
「機材は」
「小さいやつ。手のひらに収まる。最近は手の震えがあるから、三脚も使いたいけど、それは折り畳みの小さいものにする」
考えてきた提案だった。
反論を先回りして、条件を整えた上で頼んでいる。
亮平はそういう人間だった、と早苗は思った。
感情で押してこない。
「規則上、患者さんの撮影機器の持ち込みは許可制になっています」
「申請すれば通る?」
「ケースによります」
「このケースは」
早苗は亮平を見た。
亮平は真顔だった。
頼んでいるのではなく、確認している顔だった。
「難しいと思います」と早苗は言った。
「プライバシーの問題があります。他の患者さんやご家族が映り込む可能性がある。病棟の構造上、完全に避けることはできない。また、撮影された映像がどう使われるか、病院として管理できない」
「公開するつもりはない。俺個人の記録として撮りたいだけだ」
「それを担保する方法が、制度上ありません」
「そうか」と亮平は言った。
あっさりしていた。
食い下がらなかった。
「わかった」
早苗は立ち上がった。
「午後また来ます」
「うん」
病室を出てドアを閉めながら、早苗はその「わかった」の言い方が、頭の隅に残った。
納得したのではなく、諦めたのでもなく、ただ状況を受け取った、という感じの声だった。
亮平は昔からそういう受け取り方をする人間だった。
反論も懇願もせず、ただ現実を現実として引き受ける。
その静けさが、早苗にはいつも、何かを言いたくさせた。
廊下に出ると、蝉の声が遠くから届いていた。
八月の終わりの、少し疲れた蝉の声だった。
午後の処置を終えた後、早苗は医局に戻って書き物をしていた。
カルテの更新をしながら、亮平の今日の問診内容を入力する。
嚥下機能の低下。
手指の震えの出現。
疼痛コントロールの継続。
それぞれ所見として打ち込みながら、早苗は自分が今、何を感じているのかを、うまく言語化できないでいた。
感情を論理で押さえ込む癖は、研修医の頃からあった。
患者の死を前にしても涙を見せない、という評判は、努力の結果ではなく、気づいたら身についていたものだった。
感情が出てくる前に、言語に変換する。
言語にしてしまえば、扱える。
整理できる。
そうやって十五年、この仕事をしてきた。
亮平のことを言語に変換しようとすると、どこかで詰まった。
多系統萎縮症、四十一歳男性、緩和ケア目的での転院——そこまでは書ける。
その先が、うまく書けなかった。
医局の窓の外に、夕方の光が差し込んできた。
病院の敷地内の欅の葉が、風に揺れている。
まだ青い。
その夜、早苗は遅くまで残務をこなしていた。
病棟の夜は静かだ。
昼間の緊張が抜けて、廊下の音が妙に遠くなる。
消灯後の病室からは、時折、寝返りを打つ気配や、低い咳払いが聞こえてくる。
ナースステーションの蛍光灯だけが白く灯っていて、その外は薄い闇になっている。
早苗はその静けさが、嫌いではなかった。
感情を置いておける場所のような気がした。
書類を整理しながら、廊下のほうに目を向けると、めぐみが病室を一つひとつ確認しながら歩いているのが見えた。
深夜の見回りだった。
亮平の病室の前で少し止まって、中を覗き、それからゆっくりと入っていった。
しばらくして、めぐみが戻ってこないことに気づいた。
早苗は書類から目を上げた。
亮平の病室のドアが、少し開いていた。
中から、声は聞こえない。
ただ、明かりが細く漏れていた。
早苗は書類に視線を戻した。
担当看護師が患者と話している。
それだけのことだ。
自分が気にすることではない。
そう思いながら、その細い光が気になって、三度ほど目を向けた。
めぐみが病室から出てきたのは、三十分ほどしてからだった。
ドアをそっと閉めて、ナースステーションに戻ってくる。
早苗と目が合った。
「眠れなさそうだったので」とめぐみは言った。
「少しお話ししてました」
「何か変わったことは」
「いいえ。ただ、起きてらしたので」
早苗は頷いて、書類に視線を戻した。
それ以上は聞かなかった。
翌朝、めぐみが申し送りのついでに早苗の横に立った。
「昨夜の津田さんのことなんですが」
「何かありましたか」
「いいえ、特には。ただ」
めぐみは少し言いよどんだ。
「先生と知り合いなんですね、とお聞きしたら、昔ね、とおっしゃって」
「そうですか」
「どんな方だったんですか、って聞いたら」
早苗はペンを止めた。
「笑わない人だった、って。でも自分の前だけでは笑ってくれた、って、おっしゃってました」
早苗は書類を見たまま、しばらく何も言わなかった。
「患者さんのそういう話は、あまり教えてもらわなくていいです」
「すみません。余計なことを」
「いいえ」と早苗は言った。
「気にしないでください」
めぐみが行ってしまった後、早苗はペンを持ったまま動かなかった。
笑わない人だった。
俺の前だけでは笑ったけど。
過去形で言われた。
十二年前の話として。
それは当然のことだった。
十二年前の自分の話を、亮平は看護師にそう伝えた。
今の早苗ではなく、あの頃の早苗として。
当然のことだ、と思った。
それなのに、胸の中に、小さな澱のようなものが沈んだ。
何なのかわからなかった。
懐かしさでも、悲しさでもない。
もっと輪郭のぼやけた、言語にならない何かだった。
早苗は深く息を吐いて、次の患者のカルテを開いた。
その日の昼前、早苗は亮平の病室に寄った。
回診の時間でも、処置の時間でもなかった。
自分でも、なぜ足が向いたのか、うまく説明できなかった。
亮平は上半身を起こして、窓の外を見ていた。
病院の敷地に植えられた欅の木が見える。
葉がまだ青い。
あと一月もすれば色が変わるだろう。
早苗がドアを開けると、亮平はこちらを向いた。
何も言わなかった。
「記録の件」と早苗は言った。
亮平の目が、わずかに動いた。
「許可申請を出してみます」
しばらく、亮平は早苗を見ていた。
「昨日、難しいと言ったのに」
「条件を整えれば通る可能性があります。撮影範囲の制限と、同室患者さんへの事前告知。廊下の撮影は時間帯を指定する。その条件をクリアできれば、申請は通るかもしれない」
「なぜ」
早苗は少し止まった。
「なぜ、とは」
「昨日断ったのに、なぜ今日は申請すると言うのか。何かあったのか」
答えを探した。
適切な答えが、見つからなかった。
「患者さんの希望に応えるのも、緩和ケアの仕事です」
亮平はその答えを聞いて、少しの間、黙っていた。
早苗の顔を見ていた。
何かを確かめるような目だった。
「そうか」と亮平は言った。
「ありがとう」
それだけだった。
「早苗」でも「桐島先生」でもなく、ただ「ありがとう」と言った。
その言い方が、妙に静かだった。
「手続きに少し時間がかかります。一週間ほど」
「急がなくていい」
早苗は頷いて、病室を出た。
廊下に出ると、窓から八月最後の光が差し込んでいた。
まだ夏の光だった。
でも、影の伸び方が、昨日と少し違う気がした。
自分でも驚く決断だった、と早苗は思った。
驚きながら、でも後悔はなかった。
それもまた、うまく言語化できないことの一つだった。
病棟の廊下を歩きながら、早苗はしばらく、その答えを探した。
見つからないまま、次の病室のドアを開けた。




