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第一話 「担当医になれますか」

 転院の手続きが一段落したのは、夕方の四時を過ぎた頃だった。

 早苗は病棟の廊下を歩きながら、手の中のクリップボードを見ていた。

 問診票の一番上に、印字された名前。

 津田亮平。

 それ以外のことは考えないようにしていた。


 主任の浅野の部屋は、ナースステーションの奥にある。

 早苗はドアをノックして、入った。

 浅野は書き物をしていた。

 五十近い男で、動作に無駄がない。

 顔を上げて、早苗を見た。

「津田さんの件です」と早苗は言った。

「担当を外していただけますか」

 浅野はペンを置いた。

 すぐには何も言わなかった。

「理由を聞いていいか」

「個人的な知人です」


 また間があった。

 窓の外で、蝉が鳴いている。

 遠いようで、妙に近く聞こえた。

「いつ頃の」

「十年以上前です。関係はとっくに終わっています」

 浅野は早苗の顔をしばらく見ていた。

 値踏みするわけでもなく、ただ静かに見ていた。

「君が嫌でなければ、続けてほしい」と彼は言った。

「彼は転院先として君の名前を指定してきた。この病院に、君がいることを調べた上で」

 早苗は何も言わなかった。

「嫌なら変える。ただ、それだけは伝えておく」

 廊下に出ると、蝉の声がまた聞こえた。

 早苗は少しの間、その場に立っていた。

 それから、病室のほうへ歩き始めた。


 亮平の病室は四人部屋の窓側だった。

 今は他の三床が空いている。

 早苗がカーテンを引いて入ると、亮平は窓の外を見ていた。

 傾きかけた夏の陽が、白いシーツの上に長く伸びている。

「始めてもいいですか」と早苗は言った。

 亮平がこちらを向いた。

「どうぞ」

 早苗は丸椅子を引いて、ベッドの横に座った。

 クリップボードを膝に置く。

 ペンを持つ。

「現在の痛みの状態を確認させてください。どのあたりが一番つらいですか」

「腰から両脚にかけて。ずっとしびれている感じで、夜になると痛みが強くなります」

「スケールで言うと、今は」

「四か五。昨夜は七か八ぐらいまでいった」


 早苗はメモを取りながら、次の質問を探した。

 問診の手順は体に染みついている。

 ここから先は手順通りに進めばいい。

「食欲は」

「あまりない。飲み込みにくくなってきているので」

「いつ頃から」

「三ヶ月ぐらい前から少しずつ。前の病院でも言ったんだけど」

「確認のためにお聞きしています」

 亮平は何も言わなかった。

 早苗も何も言わなかった。

 ペンが問診票の上を動く音だけがあった。


「睡眠は」

「浅い。途中で何度も起きる」

「排泄の状態は」

「自力では難しくなってきた。それが一番、こたえてる」

 淡々とした声だった。

 まるで他人の身体の話をしているように。

 いや、そうしようとしているのだと、早苗にはわかった。

 自分も今、そうしている。


「最初に症状が出たのはいつですか」

「三年前。ちょうど四十を手前にしたあたり。歩き方がおかしいと、仕事仲間に言われて」

「その後、診断がついたのは」

「二年半前。神経内科に回されて、いくつか検査して。多系統萎縮症だと言われた」

 早苗はペンを止めた。

 わかっていたことだ。

 紹介状にも書いてある。

 それでも、亮平の口から聞くのは別のことだった。


「根治は難しいと、説明は受けていますか」

「はい」

「今後の病状の進行についても」

「一通り聞いています。ここに来たのはそういうことです」

 早苗はクリップボードを見たまま、次の欄に視線を移した。

 ペンの先が、白い紙の上で少し止まった。

 止まったことに気づいて、書き続けた。

「緩和ケアに移行することについて、ご本人の意思は確認されていますか」

「俺が決めました」

「ご家族は」

「両親はもう亡くなっています。兄が一人いますが、連絡は取っていない。緊急連絡先には入れましたが、来るかどうかはわかりません」

「わかりました」


 問診票の最後の欄まで埋めて、早苗はペンを止めた。

「ひとまず今日はここまでにします。痛みが強くなったときはすぐに知らせてください。夜間も対応できるようにしておきます」

「ありがとう」

 立ち上がりかけて、早苗は止まった。

 亮平がまた窓の外を見ていた。

 斜めから光が差して、横顔が薄く照らされている。

「桐島先生」

 亮平が言った。

「はい」

「担当、続けてくれるんだな」

 早苗は一瞬、答えを探した。

「そうなります」

「そうか」と亮平は言った。

 それ以上は何も言わなかった。

 外では蝉がまだ鳴いていた。


 帰宅したのは夜の九時を過ぎていた。

 早苗はシャワーを浴びて、ソファに座った。

 テレビはつけなかった。

 ベランダの観葉植物に水をやるのを忘れたことに気づいたが、立ち上がれなかった。


 津田亮平のことを、整理しようとした。

 十二年前。

 研修医の二年目、神経内科の当直室で知り合った。

 彼はドキュメンタリーの取材で院内に入っていた。

 三年付き合って、別れた。

 別れの理由を、早苗はうまく言葉にできないまま今に至っている。

「医者としての自分を守るため」と思ったことは確かだが、それが何を意味するのか、突き詰めて考えたことはなかった。


 今日の亮平の顔を、思い出した。

 淡々と答える声。

 自分の身体の衰えを、まるで撮影対象のように話す目。

 あれは諦めではない、と早苗は思った。

 もっと別の何か——自分の外側から自分を眺めるような、奇妙な冷静さだった。


 問診票を書く手が、少しだけ震えていた。

 亮平は気づいていたかもしれない。

 気づかないふりをしていたかもしれない。

 早苗は目を閉じた。

 医師として、適切な緩和ケアを提供する。

 それだけだ。

 それだけのことだ。

 でも「担当、続けてくれるんだな」と言ったときの声が、頭の中でもう一度、鳴った。

 確認するような声だった。

 安心したわけでも、嬉しそうでもなかった。

 ただ、確かめていた。


 早苗はソファから立ち上がって、ベランダに出た。

 夜風が少し涼しかった。

 観葉植物の土は、乾いていた。

 じょうろで水をやりながら、早苗は何も考えないようにした。

 うまくいかなかった。

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