プロローグ 「八月の転院車」
転院車が到着する、という連絡が入ったのは午後二時過ぎだった。
早苗はナースステーションで紹介状のコピーを受け取り、患者氏名の欄を確認した瞬間、ペンを持つ手が止まった。
津田亮平。
読み間違いかと思って、もう一度見た。
やはり同じ漢字が並んでいる。
年齢欄には「41」とある。
生年月日を暗算する。
合う。
多系統萎縮症、緩和ケア目的——紹介状の診断名を視線でなぞりながら、早苗は自分の呼吸が、ほんの一拍、遅れたことに気づいた。
気づいて、すぐに整えた。
廊下に出る。
八月の午後の光が、病院のリノリウムに白く照り返している。
面会者のスリッパが、どこかの病室の前に揃えて置いてある。
冷房の効いた空気の中に、消毒液の匂いが薄く漂っている。
いつもと変わらない午後だった。
病室の前で、早苗は一度、立ち止まった。
ドアを開ける。
ベッドに、男が横たわっていた。
痩せていた。
記憶の中の輪郭より、ずいぶん細い肩をしている。
でも天井を向いていた顔が、ドアの音に反応してこちらを向いたとき、その笑い方だけは、何も変わっていなかった。
「やっぱり、早苗か」
十二年ぶりに聞く声は、少しかすれていた。
早苗は三秒だけ、動けなかった。
白衣の裾を、指でつまんだ。
それから、病室に一歩踏み込んだ。
「津田さん。担当の桐島です。よろしくお願いします」
亮平はしばらく早苗の顔を見ていた。
それから、もう一度、笑った。
今度はもう少しだけ、苦いものが混じっているように見えた。
「そうか」
それだけ言って、窓の外に目を向けた。
病院の外には夏の空が広がっていた。
高く、青く、どこまでも続いているように見えた。




