その後の話
十年後。
レピージュ大学院の研究室の窓が二回叩かれた。マリーは目の前の器具に向けていた視線をあげてほほえんだ。すぐに窓に近づくと、開ける。
「いいかげん普通に入ってくることを覚えられないの?」
呆れつつ言うが、どうしても笑いをこらえきれない。
開け放たれた窓からは、暖かな風が花の香りを運んでくる。穏やかな初夏の陽ざしに温められた草花が少ししおれているのが見えた。
「こっちの方が早いだろ」
そう言って、ハウエルズは持ってきた包みをかかげて明るく笑った。
布の端から、長いサンドイッチがはみ出している。マリーは苦笑して、窓から離れる。ハウエルズは相変わらず身軽にするりと入り込んでくると、紙が散らばったテーブルを手なれたようすで片づけた。
「別に、いつもここに届けにこなくてもいいのよ? 学食だってあるんだし」
「いいの、一緒に食べたいんだから。それにマリーに味見してもらって好評だったやつは売れるんだ」
楽しげに言うと、彼はお茶の準備まではじめた。
研究は一時中断だ。マリーはため息をつくと、片づけを手伝った。室内には、食べものの良い香りが漂いはじめる。
やがて支度が整うと、昼食の時間だ。
「それで、少しは講義をするのも慣れた?」
「全然だめね、人前で話したり自分の考えを誰かに伝えるって本当に難しいわ」
マリーは口の中のものを飲み下してからゆううつそうに言った。
あれから、マリーは別の大学院に移り、そこでハウエルズの身体を作ったときの経験を生かして、人体の一部を錬成し、それを人体移植用に使えないかという研究をつづけている。
結果、患者の皮膚や血液から血管などを錬成することに成功し、マリーは現在この大学院で助教授の立場になった。一方のハウエルズは、なぜか料理に興味を持ち、一から修行をしてパン屋で働いている。美形の職人さんがいるということで、そこそこ人気者になってしまったらしく、そのパン屋は割と繁盛しているようだ。
もともと存在していなかった人間である彼と暮らすには、いろいろと手続きが必要だったものの、マリーは家族の助けなどを得て、でっちあげでなんとかした。
家族は最初、マリーの馬鹿さ加減をあげつらい、考え直すようにとさんざん迫った。けれど、それでマリーの意思が変わることはなく、結局は向こうが折れてくれた。ハウエルズと会わせたときも、最初は恐々と接していたものの、彼の素直さや真っ直ぐさに次第に心を許すようになり、今ではちゃんと家族の一員として認めてくれている。
以来、マリーは研究に没頭する日々をおくっている。そんなマリーを、ほほえましいものでも見るような目で見ながら、ハウエルズは言った。
「マリーならいつかは何とかするさ」
「そうね。でも今は無理そう、他にも大切なことができたし。そういえば、リサのところでまた子どもが生まれたそうだから、また会いに行きましょうね」
「ああ、パディントンならすぐだし、週末にでも行こうか」
ハウエルズはお茶をすする。
なんだかんだで、リサとは仲直りすることができた。最初にハウエルズと会わせたときは大変だったが、最終的にはわかってくれた。そこはやはり親友だな、と思う。彼女はすでに大学院をやめて、ビックと結婚し、今では男の子と女の子がひとりずつ生まれて、母親業にいそしんでいる。女の子はビックに似て、いたずら好きで困ると良く手紙に書いてよこすくらいだ。
「ジュディは相変わらずみたいだし、クリスも大変ね」
そう言うと、ハウエルズは楽しそうに笑い声をあげる。
クリスはどうやら本気でジュディを好きになってしまったようなのだが、彼女の方は研究が命、のままで、当分進展はなさそうだ。ちなみに、マリーのアドバイスを受けて見かけを変えたら、異性に言い寄られることが増え、うっとうしくなったのか、結局またもとの黒ローブに戻ってしまった。せっかくの美貌が生かされないのは残念だったが、それがジュディなのだろう。彼女とは今でも手紙のやり取りがあり、互いの研究について話し合うのが楽しみな研究馬鹿の仲間である。
また、結局何だかんだでホムンクルスを彼に押し付けてしまったものの、彼は彼の小人とそれなりに有益なやり取りをしたようで、あの後出世していた。たくさん面倒をかけたし、小人もたくさん話が出来たようで、マリーとしてはほっとしている。
それから、ハウエルズから聞いて、クリスが父に自分を見張るよう頼まれていたことも知った。マリーは、ハウエルズのことを報告するために、怒られるのを覚悟しつつ父のところへ行った。そのときに、クリスのことも頼んだのだ。もう彼を解放してあげて欲しいと。しばらくは父も譲らなかったが、マリーの決意が固いことを知り、最終的には頼みを聞いてくれた。いま、クリスは自由の身だ。
「まあ相手が相手だしなあ」
苦笑するハウエルズ。
彼の顔からは鋭さが消え、年齢を重ねたことによる穏やかさが表面に出てきている。
その横顔を見て、マリーはリサが手紙に書いてきたことを思い出す。
教授はパディントンから別の大学院に移り、そこで大きな功績を残したそうだ。まだ誰とも結婚はしていないが、婚約を考えている女性がいるという。それは、心にひっかかったトゲが、あと少しでとれるかもしれないという期待を抱かせる情報だった。真実のほどはわからないが、彼にも人生をともに歩んでくれる女性が現れるといい、と心から思う。けれど、彼の人生は彼のもので、良くできるのも彼しかいない。マリーには、見守ることしかできないのだ。
それに、と心の中でつぶやいて、マリーはお腹に触れる。
「ねえ、家族が増えるってどんな感じなのかしらね」
「そうだな、わからないけど、パンを買いに来る親子はたいてい幸せそうに見えるよ」
「私たちもそうなるといいね」
マリーが言うと、ハウエルズは食べる手を止めて、驚いた顔でマリーを見てくる。
それ以上は何も言わない。顔を見れば、言う必要がないのが一目瞭然だ。どうやら、言いたいことをわかってくれたらしい。
マリーは幸せな気分で静かにお茶を飲み、食事をつづける。
その少し後、研究所からひときわ大きな歓声があがった。
たまたま廊下の前を通った学生たちは、驚いて目を見交わしあう。けれど声の主がわかるとすぐ、いつものことのように談笑しながら、のんびりと扉の前を通り過ぎて行った。
~Fin~
完結です。ここまで読んで下さった方、途中だけでも一部分だけでも目を通して下さった方全てに、心から感謝いたします。
構成も何もないままただ書きたい!という気持ちとノリで書き始めたせいか、終息させられるのか不安でしたが、何とか終わらせることが出来ました。評価やお気に入りを下さった方々のおかげです。本当にありがとうございます。
一応この話のもとになったのはギリシア神話のピグマリオンのお話。それの男女逆転バージョンを書いてみたかったのですが、成功したようなしていないような。
とりあえず、三角関係って難しいとしみじみ痛感しました…(´・ω・`)