北部侯爵の影
私は、本を読み、考察を手紙にまとめた。
推論を文字に落とすたび、思考が整理されていく。曖昧だった仮説が輪郭を持ち、散らばっていた事実が、一本の線に繋がっていくのが分かる。
そうして書き上げた手紙を、ソフィアの住む公国へと伝聞鳥に託した。
羽ばたく背を見送った瞬間、胸の奥にわずかな空白が生まれる。
やるべきことは、やった。
そう自分に言い聞かせるように、深く息を吐く。
その安心感と引き換えに、徹夜の疲労が一気に押し寄せた。
瞼が重い。思考が、ゆっくりと沈んでいく。
ベッドに横になり、ほんの少しだけ目を閉じる。
――そのまま、意識は沈んだ。
トントン、と扉を叩く音。
はっと目を開けると、日はすでに高く昇っていた。窓から差し込む光が、部屋の輪郭をはっきりと浮かび上がらせている。
「リリカ、いつまで寝てるんだ。出かけよう!」
クルミの声だ。
妙に弾んでいる。嫌な予感が、目覚めより先に胸を掠めた。
「うん……お腹も減ったし、出かける」
体を起こした瞬間、待っていましたと言わんばかりにエマが飛び込んできた。
「準備しますね!」
いつもなら、強引に起こしに来るはずなのに。
「エマが起こしに来ないなんて珍しいわね。何してたの?」
「へへへ。リラと、リラの従魔と遊んでたんですけど。途中でコヨリに連れてかれて」
着替えを終え、執務室を覗く。
リラは机に座り、露骨につまらなそうな顔で事務書類を睨んでいた。
隣には、当然のようにコヨリが立っている。立ち姿一つ取っても、逃げ場を与えない圧がある。
「まあ……これが領主の勤めだしね」
自分に言い聞かせるような呟きだった。
責任という言葉を、軽く扱わないための声だ。
外に出ると、私はドノバンの馬に乗り、クルミはエマを後ろに乗せた。
二頭の馬で郊外へ向かう。
「綺麗な湖ね」
木々の合間に、水面が陽光を反射している。風に揺れる光が、穏やかな錯覚を与えていた。
「どこに行くの?」
私が尋ねると、クルミは口元を歪めた。
この表情は、だいたい碌なことにならない。経験が、そう告げている。
「シャルル軍の冒険者に、黒牙蛇の“巣”がある鉱山を聞いた」
聞いた、という言葉に、力はない。
すでに裏を取り終えた者の言い方だ。
「図鑑には、巣を作るなんて書いてなかったけど」
「正確には巣じゃない。養殖してたらしい」
それで、あの異常な数の毒の謎が解けた。偶然ではない。意図的だ。
「そんな面倒なことを?」
「シャルルの商人の依頼。かなり高額だったみたい」
クルミは楽しげに続ける。
声の調子だけ聞けば、世間話と変わらない。
「もちろん、冒険者ギルドを通さない闇仕事よ」
嫌な話だ。胃の奥が、わずかに重くなる。
「賠償金は請求した。最低でも、貯金は全没収。武器も防具も取り上げた」
淡々とした口調が、かえって重い。
感情を挟まない裁定は、逃げ場がない。
「その上で、高額な借金。生き延びられても、二度と立ち直れない」
冒険者にとって、それは事実上の終わりだ。自業自得だ。だが彼女に殺されなかっただけましだ。
「問題は、指示した商人の方だ。口が固くてね」
クルミは思い出し笑いを浮かべた。
「どうせ、聞いたんでしょ。早く話しなさい」
冒険者が蛇の養殖知識を持つはずがない。つまり、教えた者がいる。
「黒蛇の毒をばら撒く作戦を考えたのは、商人仲間の一人だと分かった」
「捕まえたの?」
「ううん。そいつの逃げ足が速くてね。でも、北部侯爵領に本部を置く商人だってことは掴めた」
「じゃあ、北部の侯爵が影でシャルルを支援してる?」
「そう。影でね」
答え合わせをしているみたいな声音だ。
「理由も、たぶんすぐ分かるわ」
そう言って、馬を止めた。
森の奥。
巧妙に隠された道の先に、廃坑が姿を現す。人の気配を拒むような、乾いた静けさがあった。
「いかにも、黒牙蛇が好きそうな場所ね。それと……冒険者が立ってる」
「昨日の今日で、まだ情報が回ってないのかも」
クルミは馬を木につなぎ、軽く肩を回した。戦う前の癖だ。無意識に身体が戦闘を思い出している。
「それじゃ、一狩りするわ」
目が、僅かに輝く。
「ドノバン競争よ。久しぶりに、ちゃんと体を動かせそう」
「卑怯だぞ!」
ドノも颯爽と飛び降りて走る。
「もう危ない、ドノ!」
馬から落ちそうになり、思わず声が出た。
戦闘は、一瞬で終わった。
クルミは、あえて距離を詰める。
冒険者の剣が振られる瞬間、その反応を確かめるように身を躱す。
次の瞬間、首筋への一撃。
力は最低限――意識を刈り取るに足るだけ。
冒険者たちは、何が起きたのか理解する前に地面へ崩れ落ちた。
全員、完全に意識を失って地面に倒れる。
「……強い奴がいない」
少しだけ、不満そうだ。
基準が、最初から違う。
「もっと強く縛っていいよ!」
「はーい!」
エマが楽しそうに縄を締め上げていく。手際が良すぎる。
「洞窟に入るの、危険ね」
「えー?」
クルミは心底残念そうな顔をした。
「蛇ごときに遅れを取るつもりはないんだけど」
「ううん。でも命大事に」
私が言うと、クルミは肩をすくめた。
「はいはい。リリカが言うなら」
私はエマに洞窟の様子を探らせる。
「人はいません。出てこないと死にますよ〜。はい、警告完了です。物音も匂いもしないので問題なしでーす」
「ありがとう、エマ」
私は息を吸い、魔力を解放した。躊躇はない。
「じゃあ……一気に終わらせるわ」
全力の炎魔術。
坑道の奥まで逃げ場を残さず焼き尽くす。続けて土魔術で出口を封じた。
冒険者たちも、土の檻に閉じ込める。
「あとで、捕まえに来させるわ」
クルミは名残惜しそうに廃坑を振り返った。
「欲張らないの」
「はいはい」
私たちは、何事もなかったように馬へ戻った。
「美味しい店を教えてもらったのよ」
さらに北に向かう路。
果樹園のそばに立つ一軒家。地元料理の店。
私たちが満足して、食事を終える頃、北の街道から軍馬の音が聞こえてきた。
規則正しい蹄音が、空気を震わせる。
「あれは?」
店員と客が、窓から見て答えた。
「アンリと北部侯爵の旗です!」
旗が風を切り、隊列が道を埋めている。
数は多く、動きに迷いがない。
「これで理由がわかるわ。行きましょう。エマはここで待ってて」
「はーい。デザートがまだなので」
私たちは、進軍してくる路を封鎖した。
たった二頭の馬で。
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