第九話 ざまあはまだです
婚約を破棄された翌朝。
リリアーナは、自室の窓辺で紅茶を飲んでいた。
眠れなかった。
泣いたわけではない。
むしろ、十二年間ずっと恐れていた日が終わったせいか、妙に頭が冴えていた。
「お嬢様」
侍女が恐る恐る声をかける。
「アルベルト公爵様がお呼びです」
「分かったわ」
父の執務室へ入ると、机の上にはすでに何通もの書類が積まれていた。
父は朝から怒っていた。
「王家へ正式に抗議する」
「お父様」
「大勢の貴族が集まる場で、一方的に婚約を破棄しただけではない。証拠も確かめず、お前を罪人のように扱った」
「お気持ちは嬉しいです。でも、少し待ってください」
「なぜだ」
「今抗議しても、殿下は聞きません」
昨夜のアレクシスを思い出す。
自分は正しい。
セシリアを守っている。
悪女から聖女を救った。
完全にそう信じ込んでいた。
「それより先に、嫌がらせの件を調べたいです」
「お前はやっていないのだろう?」
「もちろんです」
「ならば、それで十分だ」
「世間には十分ではありません」
リリアーナは机に並べられた新聞へ目を向けた。
すでに昨夜の件が記事になっている。
王太子、婚約破棄。
公爵令嬢による聖女への嫌がらせ。
真実がどうであれ、広まる時は早い。
「証拠を揃えてから、まとめてひっくり返します」
父がしばらく娘を見る。
やがて、大きく息を吐いた。
「……王妃教育の成果が、こんなところで役に立つとはな」
「十二年やりましたから」
「笑えん」
「私もです」
その時、扉が叩かれた。
「旦那様」
執事が入ってくる。
いつも冷静な男が、珍しく困った顔をしていた。
「お嬢様に、お客様が」
「私に?」
「はい」
「どなた?」
執事が一瞬黙った。
「……田中様と名乗っております」
リリアーナは目を閉じた。
「来たのね」
「ご存じですか?」
「残念ながら」
父が眉を寄せる。
「どこの家の者だ」
「日本です」
「ニホン?」
「気にしないでください」
玄関へ向かう。
予想通りだった。
昨日とまったく同じ格好で、田中が立っている。
黒いパーカー。
ジーンズ。
スニーカー。
今日はコンビニ袋だけ持っていなかった。
「おはよう」
「どうやってここまで来たの?」
「歩いて」
「そういう意味じゃないわよ。門兵は?」
「いたよ」
「止められたでしょう?」
「うん」
「じゃあ何でいるの?」
「入ったから」
「……もういいわ」
詳しく聞くのが怖くなった。
応接室へ通す。
田中は高価なソファへ遠慮なく腰を下ろし、出された紅茶を一口飲んだ。
「苦い」
「砂糖入れなさいよ」
「面倒」
「目の前にあるでしょう」
リリアーナが角砂糖を二つ放り込む。
「で、何しに来たの?」
「確認」
「何を?」
「昨日の嫌がらせ」
田中の目が少しだけ変わった。
「本当に何もしてない?」
「してないわよ」
「階段から落とした?」
「落としてない」
「教科書破った?」
「触ってすらない」
「ワイン」
「かけてない」
「平民って馬鹿にした?」
「してない!」
「じゃあ全部嘘か」
「だから昨日からそう言ってるでしょう!」
田中が紅茶を飲む。
「聖女は?」
「セシリア?」
「うん」
リリアーナは少し考えた。
「……分からない」
「敵じゃないの?」
「ゲームではヒロインだったわ」
「じゃあ敵じゃん」
「何でそうなるのよ」
「君、悪役令嬢だろ」
「だからってヒロインと敵とは限らないでしょう!」
昨日のセシリアを思い出す。
アレクシスに何かを言おうとしていた。
何度も。
だが、そのたびに止められていた。
「少なくとも、昨日のセシリアは変だった」
「変?」
「私を責めようとしてなかった」
田中の動きが止まる。
「むしろ、否定しようとしていたように見えたわ」
「ふうん」
「ゲームとは少し違うの」
「そっちもか」
「そっちも?」
「いや」
田中は何でもないように紅茶を飲む。
リリアーナが睨む。
「あなた、何か知ってるでしょう」
「色々」
「教えなさい」
「面倒」
「本当に腹立つわね!」
田中は気にせず、懐から数枚の紙を取り出した。
机へ置く。
「何これ?」
「昨日、君を告発した人たち」
「……どうやって手に入れたの?」
「ちょっと調べた」
「一晩で?」
「うん」
リリアーナは紙を手に取った。
証言者の名前。
証言内容。
日時。
場所。
順番に目を通していく。
そして、一枚で手が止まった。
「これ」
「何?」
「おかしい」
そこには、三か月前。
王立学園の東階段で、リリアーナがセシリアを突き落としたと書かれている。
「この日、私は王都にいない」
「どこ?」
「隣国の使節団との会談で、父と一緒に西部領へ行ってた」
「証明できる?」
「百人以上いるわよ」
「じゃあ一個終わり」
田中が別の紙を指で叩く。
「これは?」
教科書を破いたとされる日。
リリアーナは王宮で王妃教育を受けていた。
次。
ワインをかけた夜会。
その時間、リリアーナは王妃の隣で外国大使と話していた。
調べれば調べるほど、穴が出てくる。
「何よ、これ……」
リリアーナは呆然と紙を見る。
「こんな雑な証言で、私を断罪したの?」
「王子、相当アホだね」
「一応、昨日まで婚約者だったんだけど」
「過去形じゃん」
「そうだけど!」
腹が立つ。
だが、それ以上に。
少し笑えてきた。
十二年間。
どれだけ慎重に生きても避けられなかった断罪イベント。
蓋を開けてみれば、証拠は穴だらけだった。
「これなら覆せる」
リリアーナが呟く。
「全部調べるわ」
「うん」
「証人にも直接会う」
「うん」
「誰が何のためにこんなことをしたのかも調べる」
「頑張って」
「あなたもやるのよ!」
「俺も?」
「何しに来たのよ!」
「仕事」
「じゃあ働きなさい!」
田中が露骨に嫌そうな顔をした。
その時、廊下が騒がしくなった。
執事が急いで応接室へ入ってくる。
「お嬢様」
「どうしたの?」
「王宮から使者が参っております」
リリアーナの眉が動く。
「私に?」
「はい。至急、王太子殿下の執務室へお越しいただきたいと」
「……なぜ?」
執事が困った顔をした。
「本日予定されていた西方三領との食糧供給契約について、詳細を把握している者が誰もいないそうです」
リリアーナは黙った。
「あれ、私がまとめていたのよ」
「存じております」
「殿下の担当でしょう?」
「実務は、ほぼお嬢様が」
「……そうだったわね」
婚約者として。
未来の王太子妃として。
ずっとアレクシスを支えてきた。
会談の準備も。
資料作成も。
各領との事前調整も。
アレクシスが最後に署名できるところまで、全部。
田中が横から聞く。
「行くの?」
リリアーナは少し考えた。
「行かない」
「お」
「昨日、婚約を破棄されましたから」
「うん」
「もう王太子妃教育を受ける理由も、殿下の仕事を代わりにやる理由もありません」
執事が小さく笑った。
「使者には、そのようにお伝えいたします」
「お願い」
扉が閉まる。
田中がリリアーナを見る。
「でた!」
「何が?」
「ざまあ」
「まだよ」
リリアーナは紅茶を一口飲んだ。
「こんなの、まだ入口でしょう?」
田中が少しだけ笑った。
「ちょっと楽しみだな、リアルざまあ」




