第八章 ポータルの滝
空がようやく開けはじめ、羽咋の街が視界に広がったころだった。
低い山並みの稜線が茜色に染まり、その上の空は薄い青へと移り変わっていく。夜と朝の境目が、ゆっくりと世界を塗り替えていた。
俺は、ついさっき目を覚ましたばかりだった。気がつけば、救急車の狭いベンチに横になったまま眠っていたらしい。金属の匂いと、わずかに揺れる車体の振動が、まだ体の奥に残っている。
正面を見ると、長い棒を抱えたマオが目を閉じ、同じく狭いベンチに腰かけていた。その隣ではキタローが、座った姿勢のまま静かに眠っている。
真ん中にはストレッチャー。そこにフランソワが横たえられている。白い布に包まれたその姿は、まるで別世界の住人のように静かだった。
救急車の床にはブランケットが敷かれ、拓郎がそこに横になっている。
彼はさっきからスマホをいじりながら、何かぶつぶつと呟いていた。
「こっちでいいのか?」
運転席のヤスが、バックミラー越しに起きた俺を確認しながら声をかけてきた。
フロントガラス越しに街を見ても、どこを走っているのか判然としない。早朝の羽咋は、まるで人の気配を拒むように静まり返っていた。
すると拓郎がスマホを掲げて言った。
「ナビに回しましたから、指示通り運転してください」
「わかった」
ヤスは短く返事をし、救急車は誰も歩いていない田舎町を疾走していく。
やがて道は緩やかな登りへと変わった。屋敷へ続く道だ。
塀が見え、門が見え、あの場所が近づいてくる。
「あれか?」
棚橋が目をこすりながら訊く。
「そうです」と俺。
「やっぱ、お屋敷だわ」
棚橋は口笛でも吹きそうな調子で応えた。
「どこに停めます?」
ヤスが棚橋に訊く。
俺は代わりに答えた。
「もう少し上ってください。車庫がありますから」
救急車を車庫の中に隠し、俺は裏門の戸を開けに向かった。
車庫の隣の塀は崖に連なっていて、その途中に小さな裏門がある。
先日、俺は屋敷の正門に閂をかけ、この裏門から外へ出たのだった。
裏門から裏庭へ入ると、棚橋が感嘆の声を上げた。
「おお~、由緒ある屋敷の庭だね」
見かけによらず、美的センスがあるらしい。
マオとキタローがフランソワを乗せたストレッチャーを母屋へ運んでいく。
俺は拓郎を乗せた車いすを押しながら庭を渡った。
勝手口の位置がわからないし、滝のある部屋には玄関からしか行ったことがない。だから玄関へ向かう。
玄関に上がると、棚橋は応接間を見て口笛を吹き、そのまま入っていった。
「わかっていると思いますが、勝手に持ち出すと、まずいですよ」
俺がそう言うと、棚橋は鼻で笑った。
「俺はコソ泥じゃないぞ。エロガキ君」
そして「早く行け」と俺に指図する。
ムカついたが、言い返す気力はなかった。
棚橋はご機嫌で傑が腰かけていたチェアに座り、ヤスは部屋の備品を眺めながらうろうろしている。
「僕もここに居るから」
拓郎はそう言い、応接室に車いすを入れてもらって座った。二人を監視するつもりなのだろう。
ストレッチャーは玄関に下ろされた。
キタローは掌をぶらぶらさせている。運んで疲れたようだ。そのまま応接間へ入っていった。
マオは少し考え、ストレッチャーの脇に腰を下ろした。そして俺に向かって言った。
「背負うから、フランソワの身体を起こして」
俺はフランソワの背中に手を回し、上体を起こす。
力が入っていないため、体はグニャッとしなり、抱き上げると軽すぎて不安になる。
そのままマオの背中に乗せた。
マオはフランソワを背負ったまま立ち上がる。
「大丈夫ですか?」
思わず聞いてしまった。
「ああ。体力と持久力は自信があるからね」
真顔で応える。
フランソワを背負ったマオとともに廊下を進む。
回廊を右へ、左へと曲がり、別棟へ続く廊下へ入る。
滝の部屋へ続く廊下には窓がない。
光が一切入らず、真っ暗だ。
マオが立ち止まる。
「行けるの?」
俺に訊く。
「少し行けば行き止まりになっていて、そこまで行けば、たぶん、見えると思うのですが……」
記憶をたどりながら答える。
マオは黙って俺の顔を見る。騙すつもりはないか、探っているのだ。
「先に行きます」
俺は真っ暗な廊下を摺り足で進んだ。少し上りの傾斜がついている。
確か10メートルほどだったはず――そう思いながら進むと、右側からかすかな光が漏れているのに気づく。
正面に木の壁が見えた。行き止まりだ。廊下は右へ折れている。
「つきました」
振り返ると、真正面にマオの顔があった。
暗闇からふっと浮かび上がったようで、思わず叫んだ。
「おおっと!」
「こっちが驚くは」
マオが毒づく。
右へ数歩進むと、壁沿いに格子戸が現れる。滝の部屋だ。
そこで気づく。ぼんやりした灯りは、滝の洞窟から漏れているのだ。
「なんだ、あれ?」
マオが呟く。
青白い光が洞窟の奥から漏れ出ている。
「そうか……」
俺が呟くと、マオがすぐ訊く。
「なんだ」
「いえ……」
洞窟はポータルとして機能し、どこかと繋がったままなのだ――その事実が胸に重く落ちた。
「あそこへ行くのか?」
マオが聞く。
「はい」
だが、俺は考えていた。
入れば、どこかへ飛ばされる可能性がある。
ピラミッドかもしれない。そうなれば、この世界でフランソワを蘇生させ、ハズキを救うことができない。
「どうするんだよ」
マオが苛立ちを隠さず訊く。
「そうですね……」
考えても仕方がない。進むしかない。
俺はそう腹を決め、格子戸を開けて中へ入った。
マオもフランソワを背負ったまま続く。
洞窟へ進むと、淡い青い光が強まり、渦を巻き始めた。
その異様な光景に、俺たちは思わず立ち止まる。
「大丈夫なんだよね」
マオが訊く。声がわずかに震えている。怪奇現象を目の当たりにしているのだから当然だ。
「いや、なんとも……」
困惑しながらも、これは洞窟が俺たちを誘っているのではないかと思えた。
考えるな。進め――そう思った瞬間、光の中に影が生まれ、ゆっくりと大きくなっていく。
何だ――
俺たちは固まった。
影は人の形を整え始めた。
「そうか……」
俺が呟くと、マオが叫ぶように訊く。
「なんだ」
だが答えられない。
ポータルが稼働している以上、何者かが現れても不思議ではない。
それを説明する余裕はなかった。
影はついに姿を現した。
光の渦から、小さな人影が歩み出る。
それは……全裸の少女だった。
彼女は呆然と立ち止まり、こちらを見つめる。
栗色の髪、白い肌――どう見ても欧米系だ。
と、認識した瞬間、俺の喉から裏返った声がほとばしった。
「マリー!」
少女は驚き、俺を見つめ返す。
滝の洞窟から現れたのは――
フランソワの侍女、マリーだったのだ。
何と……
マリーが洞窟を通り、この現実世界へ出現したのだ。
第九章 小があれば大もある に続く。




