第六章 窓に映る顔は
男はソファーにドカッと腰を落とした。沈んだような、面白くなさそうな顔つきだ。その無愛想な表情に気圧され、俺も椅子へとゆっくり腰を戻した。
胸の奥で、どうするべきかと考えが渦を巻く。
彼らは拓郎に俺の写真を見せるだろう。拓郎は当然「知らない」と答えるはずだ。だが同時に、俺が梅渡の者だと伝えられる。さらに「お前に会いたがっている」と添えられるだろう。
そのとき拓郎はどう反応するのか――「連れてきて」と言うのか。それとも、関わりを断つように否定するのか。
どちらに転んでも、俺の運命は大きく揺れる。
「腹減ったな……」
男がぼそりと呟いた。
スマホを見ると、時刻は11時を過ぎていた。
「何か買ってきましょうか」
自然と口が動いた。パシリとして扱われている自覚はある。
「はあ?」
男は俺の顔をじろりと見て、鼻で笑った。
「逃げるつもりか」
「逃げないですよ。僕はタクロウさんに、何が何でも会わなければならないんですから」
そう言うと、男はしばらく俺を観察するように黙り込んだ。
「……それもそうだな」
やがて男は肩をすくめ、
「よし、それじゃ、食べに行くか」
と言った。
「食べに?」
思わず聞き返す。
「そうよ。近くに美味いラーメン屋がある。時間もちょうどいいし、行くか?」
男は軽く顎をしゃくった。
戸惑いながらも、「お願いします」と頭を下げた。
二人、テーブルを挟んでラーメンを啜る。
湯気の向こうで、男の顔がぼんやり揺れて見えた。
確かに美味い。久しぶりに「美味しい」と心から思えるラーメンだ。
生きた心地がする――その感覚が、こんなにも鮮烈だったとは。
囚われの身であることを思い出すと、可笑しくもなる。
「俺は、お前に賭けてもいいぞ」
麺を啜りながら、男がぽつりと言った。
「えっ?」
箸を止め、男の顔を見る。
「助けてやるよ」
男は俺の方を見ず、淡々と続けた。
「助けてくださると……?」
「そうさ」
男は顔を上げ、真っ直ぐに言った。
「タクロウにも合わせるし、フランソワを救い出す手助けもする。本家か、に連れて行くのも、な」
胸が熱くなる。
「それは嬉しいですが……大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫」
男は掌をひらひらさせた。
「もういい加減、あいつにくっ付いてるのも嫌になってね。顎で使われるだけ。それでいてケチだしよ」
愚痴をこぼす男の声は、どこか本音めいていた。
「ああ……なるほど……」
俺は思わず口にした。
なるほど――棚橋が裏で指示している場面が、脳裏に浮かんだからだ。
“二人だけになったら、俺を裏切るように見せろ。安心させて、ウメド家のことを探れ。”
胴元らしい、周到な裏取りだ。
「なるほどね……」
もう一度呟くと、男はニヤリと笑った。
「俺の名はキタロー。もちろん本名じゃないけど、そう覚えとけ」
男が手を差し出す。俺はその手を握った。
「ちなみに、もうひとりの男の名前はヤス。こっちは覚えなくてもいい」
「それで、キタローさん。僕は何をすればいいですか?」
「まず、ウメドのことを詳しく教えろ。それによって対策を練る」
キタローは真剣な目をしていた。
「はい」
俺は頷き、知る限りの梅渡家のことを語った。
加賀藩から続く血筋、全国に張り巡らされた裏のネットワーク――多少盛りながら説明した。
話を聞き終えると、キタローは「それじゃ……」と前置きし、
「そのネットワークを使えば、フランソワを病院から連れ出すこともできるんじゃないの」
と言った。
「そうです。だから、僕はタクロウさんに会う必要があるのです」
俺は強調した。
「なるほど」
キタローは立ち上がった。
ラーメン屋を出ると、キタローはスマホでタクシーを呼んだ。
すぐに車が到着する。半年の間に世界がずいぶん進化したように感じられ、妙に感心してしまう。
「乗れ」
言われるまま後部座席に乗る。逆らう理由はない。
「どこへ?」と訊くと、
「もちろん、タクロウがいる病院だよ」
キタローは当然のように言った。
病院前で降りる。
大きな総合病院。広い駐車場はほぼ満車で、ロビーも人で溢れている。
どこも大変だな、と場違いな感想が浮かぶ。
「ここで見つかったら、つまらんからね……」
キタローは呟き、スマホを取り出して電話をかけた。
「あっ、お疲れさまです。いま、どこにおられますか?」
棚橋にかけているのだろう。
「そうなんですね。いえ、昼はどうすればいいかと……そうですね。こちらで考えます」
そう言って電話を切った。
「車に乗っている。大丈夫だ」
キタローはそう説明し、ロビーへと歩いていった。
エレベーターで6階まで上がる。
扉が開くと、消毒液の匂いが鼻を刺した。病院特有の静けさとざわめきが混じり合う空間だ。
部屋は6021だということで、廊下を曲がりながら進む。
白い壁、規則正しく並ぶドア。どこも同じように見えるのに、そこへ向かう足取りだけが重くなる。
そして――その部屋の前には警官が立っていた。
当然だろう。拓郎から事情を聞きたいのは警察も同じだ。
警官は無表情で、ただ立っているだけなのに、そこが結界のように見えた。
キタローは警官の前を何事もないように通り過ぎ、ナースステーションへ向かった。
俺は目立たないように後ろをついていく。
キタローは事務員に向かって、
「自分は6021に入っている患者に伝言を頼みたい」
と静かに言った。
事務員は即座に首を振った。
「それは警察の許可がなければできません」
キタローは一瞬だけ笑った。
「直接、理事長にお願いしてもいいのだけれど」
と理事長の名前を出し、
「そうすると、あなたの立場が困るだろうから」
と低く凄んだ。
事務員は怖い顔をして黙り込んだ。
その沈黙を見て、キタローは「分かりました」と言い、スマホを取り出した。
事務員は慌てたように、
「何の伝言ですか?」
と訊いてきた。
キタローは胸の内ポケットから、もう一つのスマホを取り出した。
「これを渡してくれるだけでいいです」
それは――拓郎のスマホだった。
事務員はそれを受け取ると、すぐに椅子を立ち上がり、6021へ向かった。
その背中を確認すると、キタローは6階の休憩スペースへ向かった。
休憩スペースは静かだが、意外と混んでいる。
外に向いたベンチに二人並んで座った。
「お前のスマホからタクロウにメッセージを送れば」
キタローが言う。
俺はすぐにスマホを取り出し、
「本家の者です。具合はどうですか?」
とショートメッセージを送った。
すぐに返信が来る。
「本家?」
「そうです。スグルが心肺停止の今、私が本家を代表します」
と送る。
「どこにいますか?」
と返ってきたので、
「休憩スペースにいる」
と送る。
「すぐ行きます」
と返事が来た。
「来ます」
俺が短く言うと、キタローは「わかった」と言い、俺から少し離れた。
しばらくすると、車椅子に乗った拓郎が看護師に付き添われて休憩室に現れた。
混んでいるスペースを見回している。
俺はメールを送る。
「確認しました。元気そうですね。何よりです」
拓郎はスマホを確認している。
「窓まで来てください。真ん中に来て、外の景色を見ていてください」
と送る。
拓郎は看護師に何か言い、一人で車椅子を回しながら俺の隣まで来た。
まっすぐ外を見ている。
ベンチには人がぎっしり座っている。
俺は前を向いたまま、
「こちらを見ないでください」
と言った。
曇り空のせいで、窓には俺と拓郎の顔が薄く映っている。
彼の驚いた表情が、ガラス越しに見えた。
「挨拶は抜きます。ハクライワタルです。あなたの言うところの、力を持つものです」
俺は前を向いたまま呟いた。
拓郎がゴクッとつばを飲み込むのが、窓越しに分かる。
「フランソワさんの状態は分かりますか。独り言でけっこうです」
拓郎は咳払いをした。演技は得意ではないようだ。
「大丈夫かなあいつ……心臓が止まっているんだよな……だけど、外傷は少ないし……ほかの臓器も問題ないようなこと、看護師が言ってたな……」
窓に映る自分の顔を見ながら呟く。
「ウメドの本家に連れていきます」
俺も窓に映った自分の顔を見ながら言った。
「マジで」
拓郎はこっちを向きそうになり、慌てて正面に戻った。
「出すときに、協力してほしいのです」
「僕に?」
拓郎が呟く。
「繋がりをお願いします」
「君では無理なのか?」
「まだ未成年です」
答えになっていない答えをした。未成年という単語は都合よく使える。
「そうか……」
拓郎は考え込む。
そこで俺は鎌をかけた。
「病院の看板に、菊文字系の徴があったような気がしますが」
「えっ?」
拓郎は呻いた。
閃いたように、俺は続ける。
「だから、ここに入れられたのでしょう」
拓郎は、こんな少年に負けてはいられないと思ったのか、
「君、名字は違うよね」
と暫くしてから呟いた。
「たしか……」
「ハクライです」
「そうだよね。傍系、でしょう」
「そうです。だから、直接繋がりに繋がらないのです」
笑いそうになったが、まじめに言った。
「だけど、君、さっき、本家を代表して、とか言わなかったか」
詰問する口調だ。勝ち誇っている。
それならば――と俺は腹を決めた。
「はい」
気合を入れて応える。
「僕は力を持っています。現在、本家であろうと傍系であろうと、力を持つのは僕一人だけです」
拓郎は黙った。
「そうですね……タクロウさん。あなたは自宅が燃えた時、あれは放火ですが、中屋根から降りられなかったじゃないですか。窓が割れて驚いて落ちましたよね」
窓に映った拓郎の顔が引きつる。
恐怖が、はっきりと見えた。
拓郎は唾を飲み込み、
「わかった」
と震える声で答えた。
俺はそれを確認し、静かに立ち上がって休憩室を出ていった。
エレベーターの前にキタローは立っていた。
別に待ちわびたようにも見えない。
「終わりました。協力してくれます」
彼が振り返りざまに短く言う。自分の声は、任務を終えた兵士のように乾いていた。
「よし。それじゃあ、帰るか」
キタローは淡々と告げ、エレベーターボタンを押した。
まるで何事もなかったかのようだ。
病院の外へ出ると、湿った秋の空気が肌にまとわりついた。
二人でタクシー乗り場へ向かう。
急ぐでもなく、何も話すこともなく。
タクシー乗り場でキタローは立ち止まり、俺に向き直った。
「これに乗って、お前は家に帰れ」
唐突な言葉に、思わず聞き返す。
「自宅に?」
「そう。少年だから、捜索願が出たりするとやっかいだから」
「ああ……」
確かに、警察沙汰になればすべてが台無しになる。
「タクロウと密に連絡を取って、フランソワを脱出させる計画を練ろ」
「はい」
「それで、俺に連絡してくれ。その間に、兄貴たちを説得するから」
「わかりました」
短い会話だったが、そこには重い責任が詰まっていた。
俺はタクシーに乗り込む。ドアが閉まる瞬間、キタローの横顔が一瞬だけ柔らかく見えた。
……
自宅に戻る。
誰もいない静かな空間が、やけに広く感じられた。
リビングに腰を下ろし、ぼんやりと天井を見上げる。
この「ぼんやりする時間」は、この半年間ずっと続いていたはずなのに、三日ぶりのはずなのに、なぜかずいぶん久しぶりのように思えた。
静けさが逆に焦りを呼び込む。
胸の奥がざわつき、落ち着かない。
すると、ふっと思い出す。
――傑さんはどうなったのだろう。
その瞬間、体の奥から熱が湧き上がった。
俺はスマホを取り、拓郎にショートメールを送る。
傑の様態を聞くためだ。
返信はすぐに来た。
傑は重体。
心臓は微かに動いている。
心肺停止状態で運ばれ、集中治療室での処置により心臓が動き出したという。
人工呼吸器をつけ、昏睡状態。
深刻なのは外傷で、複数骨折。
腰の大腿骨を骨折しているため、回復しても車いす生活になるだろう――との見立て。
画面を見つめる指が震えた。
とりあえず、生きていて良かった。
そう思う一方で、
自分が巻き込んでしまったのだという事実が胸に刺さり、息が重くなる。
続いて、フランソワを病室から運び出す手立てを拓郎に伝える。
実行は棚橋たちと自分で行う。
その時間帯の監視カメラの停止、ドアの解除、看護師たちの排除――それらをお願いした。
「了解」と返信が来る。
そして追伸。
「僕も忘れずに連れて行ってくださいよ」
その一文に、拓郎らしい軽さと、深い覚悟が滲んでいた。
第七章 ストレッチャーで脱出 へ続く




